独軍侵攻前夜のポーランド航空部隊

 ドイツ軍の侵攻を間近に感じつつ、その対策に追われていたのはフランスだけではありません。ポーランドもまたフランス、イギリス以上にその脅威を感じています。しかも1939年当時のポーランド首脳にとってドイツのポーランド侵攻が実施されても連合国が参戦せず「ミュンヘン危機がポーランドで再現される」という悪夢のような想定が常に頭を離れません。この点の切迫感はフランス、イギリス両国とポーランドの大きな違いです。

 ポーランドの航空軍備が戦間期の世界的流行だったドーウェの戦略爆撃論に大きな影響を受けていたことは前に紹介した通りです。1934年から対ドイツ戦を想定した演習が繰り返され、地上軍の支援と戦術的集中機動訓練が行われています。そして1937年にはドイツの鉄道拠点への攻撃演習が行われ、その効果が確認され、1938年にはまだ誕生したばかりの空挺部隊の投入や、ドイツ空軍航空基地への航空撃滅戦、防空戦も演習項目に加えられます。

 けれどもこうした爆撃機中心の航空軍備がある程度完成する時期は早くとも1940年度後半か、現実的には1941年度になることが予想されていましたから、切迫するドイツ軍の侵攻に間に合わないとの危機感がつのり、その結果、従来の航空軍備方針が即応体制の急速整備に向けて大きく方向転換することになります。

 急速転換したポーランドの航空軍備は「ポーランドが連合国の具体的な軍事支援を得られない」との危惧を背景にしています。1938年当時のポーランド航空兵力は単独で戦った場合、ドイツ軍侵攻から4週間程度の継戦能力しか保持していないと分析され、継戦能力を高めることを目的とした軍用機調達方針が採用されます。

 従来の軍備構想で調達されてきた双発爆撃機部隊は、航空攻勢を実施する場合、通信網と無線航法システムの不備からドイツ国内への侵攻作戦に即時対応することはできないと判断され、軍用機調達方針は自国製軍用機による自給自足方針(PZL37ロスの調達計画のこと)から外国製戦闘機の輸入へと向かいます。残り少ない外貨が戦闘機購入に注ぎ込まれた様子は前回紹介の通りです。

 こうして1939年度と1940年度の軍事予算が拡大され、航空軍備は戦闘機と戦術機(単発のPZL23カラス)を中心とした調達計画に修正されます。緊急の軍備ですからブルガリアに輸出予定だったPZL23もポーランド軍によって徴発される中で、航空作戦計画もまた防空と地上支援作戦中心に練り直されることになります。

 ポーランド軍は国内を戦闘区域とそれ以外に区分し、ドイツ国境沿いの基幹航空基地を中南部へ後退させるとともに、兵站の改革を行います。各航空部隊はそれぞれ独自に7日分の燃料と潤滑油、爆弾を保持し、ビッスラ側西岸の各鉄道拠点には10日分の補給品が蓄積されます。基幹となる航空基地は周辺に秘匿飛行場を含む予備飛行場が急造され、単独の飛行場から空襲で潰され難い飛行場群へと姿を変えます。その中にはダミー飛行機を置いた擬装飛行場も建設され、こうした飛行場群は合計38箇所に及びますが、この突貫工事は本土決戦を控えて急造秘密基地を各地に建設した日本のようなペースです。

 そして「ひょっとしたら頼れないかもしれない」と覚悟しているフランス空軍との協同体制も準備されます。それはポーランド国内の航空基地にフランス空軍爆撃機5個飛行隊の配備を行い、ドイツを挟んでフランスとポーランド間で往復爆撃を行うという計画です。この計画はちゃんと実行に移されており、1939年8月8日にはフランス空軍のアミオ爆撃機がワルシャワに飛来し、往復爆撃作戦の具体的な問題点解決に向けて無線通信や補給問題がポーランド、フランス両国による協同委員会によって検討されます。

 こうしたフランスとの協同作戦は着手されたものの実施には至りませんでしたが、それでもドイツ軍侵攻直前のポーランドの航空兵力は、9個爆撃飛行隊(総司令部直属)、5個戦闘飛行隊(ワルシャワ防空任務)、そして野戦軍指揮下に10個戦闘飛行隊、7個戦術飛行隊、11個直協飛行隊の合計274機が実戦力として展開します。これが精一杯の航空戦力でした。

 兵力不足、機材不足の無いものだらけのポーランド空軍でしたが、その中で人員の養成だけは他国よりも順調に進んでおり、1600名の第一線乗員(1181名の操縦士、497名の航法士、219名の射手)が確保されていました。 これはポーランドの軍備が機材面では捗々しくなかったものの、人員の養成では他国よりも着手時期が早かった分だけの効果を上げていたことを示しているのでしょう。

 侵攻の危機が迫る1939年8月25日、ドイツ軍の集結情報を入手(エニグマ情報入手で知られるポーランド軍は情報収集において侮れない実績を持っています。)したポーランド軍は秘密裏に動員を発令、地上要員の秘匿基地への移動が開始されます。侵攻必至との判断です。さらに8月31日、第一線航空兵力の大多数に秘匿基地への移動命令が下り、各航空部隊は平時の基地を飛び立ちます。

 そして9月1日、ドイツ空軍はポーランドの主要航空基地へ大規模な同時攻撃を実施してポーランド航空部隊の一挙壊滅を狙います。対ポーランド航空撃滅戦の開始です。
 しかし空襲を受けたポーランド国内の基地で炎上したのは練習機と予備の旧式機だけでした。前日に秘匿基地へ移動していた主力部隊はほぼ無傷だったのです。奇襲攻撃は事前に察知され、爆撃機部隊は飛行機の出払った飛行場を爆撃してしまったことでドイツ空軍にとっても初めて体験する航空撃滅戦は、まったくの失敗に終わってしまいます。 最初の一太刀を見事にかわしたポーランド空軍の行動は見事というほかありません。

 ドイツ軍にとってポーランド戦が大勝利は大勝利でもどこかに何となく奥歯に物の挟まったような「100点ではない」ニュアンスで語られるのは初の本格的戦争で露呈した諸問題に加えて、開戦劈頭の空襲による敵航空兵力撃滅に失敗してしまったことも大きく響いているようです。こうして生き残ったポーランド航空部隊は9月16日まで徹底抗戦を続けてドイツ軍に被害を与え続けることになりますが、それは苦闘の歴史である上に最後の曙さえも無いお先真っ暗の第二次世界大戦ポーランド空軍史の幕開けでもあります。

11月 5, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ポーランド空軍

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