ロールスロイスの事情
世界大戦後の1920年代、イギリスの航空発動機メーカーといえばネピアでした。ロールスロイスは1925年頃までは軍用航空発動機市場で25%のシェアを持っていましたが、徐々に後退し、1929年には11%まで落ち込んでしまいます。1930年中にロールスロイスが製造した航空発動機は合計132基でしかありません。
こうした苦境を打開したのが名機として知られる「ケストレル」です。やがて「マーリン」に発展する液例発動機「ケストレル」は合計27機種に採用されてロールスロイスの躍進を実現した傑作発動機ですが、1928年から開始されたその生産を入れてもこの程度の数です。
そして「ケストレル」は1928年から1938年までの10年間に4778基が生産されていますが、この生産量は日本の「誉」発動機の半分程度の数を10倍の期間にわたって造ったことになります。しかもその後半は軍備拡大のための大増産時代に入り、「ケストレル」は来るべき戦争に備えて量産すべき筆頭品目として集中的に増産されていますから本当の平時には実に細々と作られていたということです。
航空発動機の製造はそんな世界でしたが、1933年のナチス台頭とともにイギリスにも軍備増強の機運が生まれ、航空発動機界は急激な増産を求められるようになります。戦時に関連分野の他社工場に転換生産を行わせるためにあらかじめ航空関係各社にパートナーとなる予定の製造会社を準備するという、有名な「シャドー」計画もそんな中で進められます。
しかしロールスロイスは「シャドー」計画に否定的態度を示します。ロールスロイスのパートナーとなる「シャドー」にはハンバーが充てられていましたが、ロールスロイスはハンバーを潜在的競合者として技術流出を警戒し、計画に協力せず、自社のダービー工場の能力拡大などで対応しようとします。
こうしたロールスロイスの姿勢を非愛国的と非難することは簡単ですが、当時の航空発動機製造は上に書いた通り吹けば飛ぶようなものでしたから大量生産を前提とする自動車業界への技術流出を警戒したのは当然のことでもあります。
これによりダービー工場の従業員は1300人増員され、ロールスロイスの下請会社群のマンアワーは1934年の70,000人/時間から1936年には670,000人/時間と10倍に跳ね上がっています。このように下請け部門への依存率は高く、機械加工の約50%が社外の下請けに出され、それら下請け業者はロールスロイス以外の仕事も請け負う小工場群で攻勢されています。
1934年以降、軍からの大幅な受注増によってこうした下請け工場の確保は競合他社との争奪戦の様相となります。今までは最終組み立て工場として多数の下請け業者の上に君臨していたロールスロイスも軍備増強の時代を迎えて、新しい体制を模索しなければならず、増産に対する大きな阻害要因となりつつありました。生産体制そのものが戦間期の少量生産に対応したもので、このままでは戦時の大量生産には適応できないという事態を迎えたわけですが、肝心の製品そのものも大量生産を夢にも考えない設計となっていたこともまた大きな壁となっています。
軍は来るべき戦争に備えて「ケストレル」の大量発注を行っていますが、それと同時に新型で高性能の「マーリン」への期待も示していたので、ロールスロイスとしては「ケストレル」の大増産と「マーリン」の量産立ち上げという二つの課題を同時にこなさねばならない苦しい時期を迎えています。そして悪いことには「マーリン」そのものも古き良き時代の製造方式を前提に設計された大量生産に適さない製品でした。
たとえば「マーリン」のアルミ合金鋳造によるクランクケースは当時としては高度な技術を必要とする製造の困難な部分で、1936年から1937年頃の不良率は「マーリンⅠ」で65% 、新型の「マーリンⅡ」では80%に達しています。1937年5月にはそれまで増産を続けていたロールスロイスの発動機生産は前年同期比50%にまで落ち込んでしまい、増大を続けていた従業員数も1932年以来初めて停滞し、横ばいとなっています。こうした事態をうけて軍からの「マーリン」発注数は下方修正されることになり、「マーリン」装備機の生産の停滞と「マーリンⅠ」から「マーリンⅡ」への換装計画にも大きな影響が出ています。
「精緻で量産を考えない設計」「旧式の製造設備」「旧式設備の下請けへの依存」と、まるでどこかの国かと思えるような状況が第二次大戦最高傑作発動機の周囲に存在したということですね。
3月 17, 2008
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Posted in: 発動機
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