アルメデレール以前 1(ライト兄弟の誤算)

 第一次世界大戦時に世界最大の空軍といえばフランス陸軍航空隊です。第二次世界大戦での派手な負けっぷりが災いしてあまり注目されない地味な空軍ですが、ナチス時代のドイツでさえ、「第一次世界大戦勃発時、航空分野でわが国はフランスに2年は遅れていた」と認めています。そしてフランス陸軍航空隊はギヌメールやナンジェッセといった空のエースを生み、わが国出身の滋野大尉もフランスのエースに名を連ねています。けれども第一次世界大戦では飛行機後進国だったはずのドイツ軍に翻弄されてしまいます。本来ならドイツ陸軍航空隊が束になって掛かっても敵わないほど強力な存在であっても誰も不思議に思わないのがフランス陸軍航空隊なのですが、そんな空軍がどう戦ったのか、何を考えていたのか、ほとんど知られていません。そんなわけでこれからしばらく、フランスでの空軍の生い立ちと第一次世界大戦での戦歴を追いかけてみたいと思います。

 ライト兄弟が不恰好な飛行機を飛ばしたのが1903年です。アメリカは世界に先駆けて軍事航空の分野を切り拓く機会を得ましたが、実際には欧米列強の中でロシアにも劣る状況で第一次世界大戦を迎えてしまいます。飛行機発祥の地、アメリカと後発のフランスが第一次世界大戦までにその地位が逆転してしまうのはなぜでしょう。

 1903年に初飛行に成功したライト兄弟は当然のことながら、こうした新発明に興味を示すはずの潜在的第顧客である各国陸軍に売り込みを開始します。その見積は20万ドルです。ライト兄弟は平等の精神を尊ぶようで母国の陸軍にもドイツにもフランスにも同じように見積ります。けれども、この価格交渉はそう簡単には折り合いません。各国陸軍はライト兄弟の飛行機は「確かに欲しいけれども、この値段でこの性能なら高い買い物だ」と思っていたのです。

 さて、ライト兄弟はどうして各国陸軍は飛行機の潜在的第顧客だと考えたのでしょう。そして各国陸軍は新発明のはずの飛行機に対して、どうして「提示価格はこの程度が適当ではないか」と判断できたのでしょうか。未知の新発明のはずなのに。けれどもその答は極めてシンプルです。ライト兄弟の初飛行直前まで、アメリカやフランスの陸軍は軍用機の開発に高額の予算を投じて手ひどく失敗していたのです。ちなみにフランス陸軍は1892年から1898年にかけて55万フランを投じて飛行機械の研究開発を行っていますが、その仕様は、人員と爆薬を搭載して時速55km/h、高度数百mで行動できる立派な爆撃偵察機です。アメリカ陸軍もまた1898年に5万ドルの予算で軍用機の研究開発を開始しています。

 ライト兄弟はこうした動きを知っていたから、各国陸軍に売り込めば良いことが判っていたのです。一方、各国陸軍はそれこそSF小説のような空飛ぶ万能兵器が欲しくて予算を費やしていたのですから、ライト兄弟が「ただ飛ぶだけ」の機械を作り上げても「これで20万ドルは高いだろう」と思い留まることができたのです。それぞれ立場は異なりますが、飛行機が少なくとも概念上はちっとも新しくないものだと、ライト兄弟も各国陸軍も承知の上だったということです。ですから一般的な航空史にあるように、各国陸軍内に生まれていた少数の熱烈な飛行機推進論者が頑迷な官僚組織を説得できなかったともっともらしく語るよりも、先鋭的な若手将校が「欲しい」と激しく主張しても「すでに予算化したけれど失敗した計画」があったから「あの程度の出来では金は出せない」と陸軍省が拒絶した、と当たり前に受け取る方が正しいようです。

 しかし世の中、夢想することは簡単でも実現することは困難です。その点でライト兄弟は自らの発明品に自信を持っています。彼らは「向こう5年間は競争力がある」と確信し、値引きするどころか、各国陸軍向けのデモ飛行を中止してしまいます。セールスマンの世界では伝統的な「引きの営業」を掛けた訳です。ライト兄弟の選択は営業手法的には適切かもしれませんが、往々にして営業部門には競合他社の開発動向が見えていません。ライト兄弟が高額の見積を掲げて沈黙している間にフランスでは独自の飛行機開発が進行してしまうのです。ライト兄弟に大きく先行されながらヨーロッパに独自の飛行機メーカーが誕生する余地がここで生まれます。

 特殊な離陸装置が必要なライト兄弟の飛行機よりもフランス陸軍が要求した仕様に適合する車輪つきの飛行機をファルマンが作り上げ、1908年には30分以上の耐空能力を実証し、飛行機開発の中心はアメリカからヨーロッパへと急速に移行し始めました。ライト兄弟は飛行機の市場を独占できず、1910年代の軍事航空にはあまり影響を及ぼしていません。より実用的な飛行機を作り出したヨーロッパ諸国が飛行機の時代を作り上げて行き、その先頭には世界第二位の自動車生産国として躍進を始めたフランスが位置していました。「航空分野でわが国はフランスに2年は遅れている」とドイツ側も認めた状況はこうして訪れたのです。第一次世界大戦前のフランスに個性的な飛行機メーカーがどんどん生まれて活況を呈した背景はこのようなものでした。

11月 30, 2009 · BUN · No Comments
Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産

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