アルメデレール以前 2 (航空先進国の航空軍備停滞)

 ライト兄弟が油断している間に雨後の筍の如く生まれたフランスの飛行機製作者たちはどんな人々だったかといえば、金銭的に恵まれた環境にあり、利益を生むかどうかさえ誰にもわからない新発明の機械を製作販売する事業をしばらくは続けられる財力のある人々で、悪く言えば金持ちの道楽者でした。
 たとえばヴォワザンは祖父の莫大な遺産で生活していましたし、ロベルト エスノール ペルテリエ(REP)は医師であると同時に綿織物会社の御曹司です。ブレリオは自動車用ヘッドライトを扱う会社の経営に携わるエンジニアであると同時に中央工芸学校で学んだ数学者でもあります。ブレゲーも祖父の経営する電気関係の企業で働くエンジニアです。このように概ね経済的に豊かで暮らしに困らない人々によってフランスの航空機工業の中核が形作られていった訳ですが、個人の資産でやりくりできるほど規模が小さかったということでもあります。彼らの先頭を進んでいたヴォワザンの工場でさえ、従業員20名程度の作業場でしかありません。

 こんな小規模の工場では、いかに原始的なものであっても飛行機を一貫して製作することはできません。そのために彼らが必要な部品を外注できる環境が必須でした。当時のフランスで少量の特殊部品を発注できる環境は自動車工業関係の製造業者を利用できるパリ近郊にしかありません。フランスの航空機工業がパリ周辺に集中したのはこうした理由です。政府の主導ではなく裕福な市民の趣味的な事業として始まった点に大きな特徴があり、どちらかといえば政府と距離を置く傾向と、敵の爆撃が容易なパリ周辺への集中という特徴的な要素は第二次世界大戦時にまで影響を与えることになります。

 そんな彼らの中にも、先行して実績を上げた者達と少し遅れて名を上げた者達との間には無視できない差がついています。先行したグループは陸軍の指定業者として軍と癒着し、軍用機の発注をほぼ独占できましたが、後発のグループは軍用機をわずかな量でしか受注できず、経営的にかなり苦しい状況に追い込まれています。ヴォワザン、ファルマン、ブレリオ、REPといった陸軍と人的関係の深いグループを除き、フランスの航空機製造業者は事業を存続させるためにフランス陸軍以外の需要を探る必要が生まれます。

 こうした事情はフランス陸軍の航空軍備予算が限られていたことが第一の原因ですが、第一次世界大戦前のヨーロッパでは何処の国の航空機製造業者であっても経営は似たようなものです。各国陸軍は航空機に興味は示すものの、その予算は十分とは言えず、ドイツ陸軍のように飛行機よりも飛行船の製造に傾注していたりします。とにかく自国で十分に売上が上がらない以上、外国に売り込んでそこで少しずつシェアを獲得する以外ありません。そのためにフランスにイタリア系の製造業者が現れたり、フォッカーのようにオランダとドイツにまたがる企業が出てきます。その中でもフランスの製造業者は輸出に熱心で、イギリス、日本、ロシア、そしてドイツにさえもどんどん売り込んで行きます。その結果、フランスはドイツにグノーム製の航空発動機を輸出する一方、ドイツは点火栓を供給する、といった相互依存が生まれてゆき、ヨーロッパの航空工業は国際分業の趣きさえ帯び始めます。このような部品や製品でお互いに分業、依存していた国家間で戦争を始めてしまったことも、第一次世界大戦初期に各国航空兵力の増強が滞った重要な背景となっています。開戦当時に飛行機が発達していなかったというよりも、飛行機を一貫して国産できる体制が整っていなかったのです。

 しかし、こうした傾向はフランス陸軍にとってあまり面白くありません。陸軍が発注した軍用機の納期が輸出のために遅れに遅れたからです。一方、フランスの製造業者たちにとっては購入予算に乏しく、値切られるフランス陸軍はあまり良い顧客とはいえません。値切られる上に発注数量は少ないと来たら、愛国心に訴えられても背に腹は代えられず、製造の優先度は輸出用の機体、発動機に与えられてしまいます。フランスが飛行機作りでヨーロッパ随一の発展をみながら後発のドイツとせいぜい互角の航空軍備をもって第一次世界大戦を迎えなければならなかった理由のひとつ目はこれです。フランスは民間企業の育成と指導があまり得意ではないようです。とはいうものの、フランスの航空軍備が実力の割りに遅れてしまった具体的な理由はまだあります。それは軍内部に存在していました。

 フランス陸軍では飛行機という発明品に価値を見出したグループが二つあります。それは飛行機を野砲の射撃観測に利用しようと考えた砲兵科と、偵察目的に使用したい工兵科とです。偵察用だろうと砲兵観測用だろうと同じ飛行機で兼用できそうなものですが、この二つの勢力は1909年から数年の間、独自に飛行機を調達して運用実験を繰り返します。陸軍内部に所属の異なる二つの航空部隊があり、それぞれが別個に活動を開始したことはフランスの軍用航空の発展を妨げる大きな要因となってしまいます。こうした対立が解消されるまで統一した軍用機の開発もできなければ、航空戦ドクトリンの策定も難しかったからです。

 けれども砲兵と工兵の対立などはまだ小さなものでした。一番の問題はそれ以降にあります。1910年には陸軍内で飛行機を攻撃的任務に用いる構想が動き始めます。飛行機から爆弾を投下することも検討され始め、ようやくフランスの航空部隊も軍隊らしくなってきます。飛行機を冒険の道具から戦争に使う兵器へと生まれ変わらせるためには、それをどう使うか、そのためにどんな飛行機を作るか、といった問題に答が出ていなければなりません。そこでフランス陸軍内では将来の戦場における軍用機の具体的な運用法が研究されるようになります。ようやく航空戦ドクトリンの策定が始まるわけです。フランスにおける航空軍備の遅れを招いた最大の原因はそこにありました。

12月 6, 2009 · BUN · 2 Comments
Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 航空機生産

2 Responses

  1. ペドロ - 12月 7, 2009

    >陸軍内部に所属の異なる二つの航空部隊があり、
    >それぞれが別個に活動を開始

    「空の要塞否定論」で紹介くださった沿岸100マイル協定以来の衝撃です。当事者達の視点からすれば合理的なのでしょうが・・・。

  2. BUN - 12月 8, 2009

    ペドロさん

    フランスの軍事航空史は驚きの連続かもしれません。
    これからも、なぜだ?と思うことばかり続きます。

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