英軍戦略爆撃の失敗と独軍防空体制

 ドイツ軍のイギリス本土爆撃隊による戦略爆撃は1918年5月に戦闘損害よりも夜間離発着時の事故多発による損失によって中止されますが、今度は独立を果たしたイギリス空軍がドイツ本土に対する本格的な戦略爆撃作戦を開始します。そこで今回は1918年7月から10月まで続けられたイギリス空軍の戦略爆撃の経過を追ってみます。

 ドイツ本土に対する戦略爆撃作戦を実施するにあたり、イギリス空軍内で爆撃目標の選定が開始されます。当時のイギリス軍爆撃機の性能と航法能力を考えるとドイツ全域の爆撃は不可能ですし、ドイツ軍爆撃隊の辿ったコースを逆に飛べば早晩ドイツ軍と同じく作戦が破綻するであろうことはほぼ予測できていましたから、できるだけ近距離でなおかつ爆撃効果の上がる目標を選定しなければなりません。検討の結果、爆撃目標は西部戦線後方に控えるドイツ西部の諸都市とされ、マインツ、フランクフルトなどが選定されています。これらの目標に対する爆撃作戦は優秀なドイツ戦闘機と友軍爆撃機の性能を考慮して最初から夜間爆撃を主として立案されていますが、原始的な機材を用いた初期の戦略爆撃とはいえ、事前のターゲッティングはかなり慎重に行われている様子です。

 その実績としては1918年7月から10月までの期間に353回の出撃があり、7717発、重量で543トンの爆弾を投下、ドイツ市民の犠牲者総数は死者797人、負傷者380人と言われています。被害総額は15,222,000ライヒスマルクに上ったとのことですが、数字を並べてもこの結果が良いのか悪いのかいま一つピンと来ませんから、イギリス軍の損害を見てみます。作戦全期間でイギリス空軍爆撃隊が蒙った損害は352機です。これは単一の爆撃作戦としては極めて大きな数字です。ドイツ軍はイギリス本土爆撃で62機の損害を出して「コストに合わない」と判断しているのですから352機もの損害は考え得る最悪の結果といえるでしょう。爆弾1.54トンを投下するたびに爆撃機1機が失われ、事故損失はともかく敵地上空で撃墜された乗員は戦死するか捕虜になって二度と帰って来ません。戦死29人、負傷64人、行方不明235人の損害はイギリス空軍にとってもあまりに高くついています。極論すればイギリス空軍はコストと時間をかけて訓練を重ねた爆撃機乗員1人を失う代わりに老若男女取り混ぜた一般のドイツ国民約3人を殺害したことになります。

 しかもイギリス空軍の戦略爆撃が与えた損害はドイツ側から殆ど問題とされていません。1918年8月の爆撃は31回に及び、122人の死者を出していますが、ドイツ側の被害分析は軍需産業への損害は無視できる程度のもので、人的被害は警報と防空壕の利用で十分に防げると結論しています。8月の122人の死者の多くは初めて爆撃を受ける都市で発生しており、その上、驚くべきことにその死者の多くは防空壕の外で「爆撃見物」中に死亡したことが報告されています。1918年7月の爆撃の中で出撃規模10位までを取り出してみると、ドイツ国民の死傷者は0人です。

 損害は余りにも大きく、爆撃効果は馬鹿馬鹿しいほど小さいという、まったく惨憺たる結果をもたらした原因はイギリス空軍爆撃機の性能や乗員の錬度、作戦の巧拙といった問題よりも、イギリスとは比較にならないほど充実していたドイツの防空システムにあります。
ドイツ軍の対空火器はもともと優秀でしたが、1918年当時はその運用が組織化され、当時としては極めて効率の良い防空戦ができるようになっています。1918年の西部ドイツは5つの管区に分割され、それぞれに空襲情報と各種連絡が集中される防空司令部があり、総数で896門の高射砲、454基の探照灯、204門の対空機関砲が配備されています。さらに9個の防空戦闘機隊が各管区の対空戦闘を支援するシステムになっていました。ドイツ西部の限られた目標都市がこのような防空システムに守られていたために、イギリス軍爆撃機は高射砲の射撃精度と射撃回数を低下させるために上昇限度まで高度をとって爆撃せざるを得ず、爆撃精度は大きく低下します。ドイツ諸都市の損害が余りにも軽いのはそのためです。

 しかもドイツ軍は国内だけでなく西部戦線でもかなり充実した野戦防空システムを作り上げていて、1917年のフランダース方面は7つの防空地区に分けられ、そこに252門の高射砲と28基の探照灯が配置されていました。高射砲の配備は月を追うごとに増加してゆき、1918年のドイツ軍は全体で2558門の高射砲(37mm、88mm、105mmなどの各種対空砲)を持つに至ります。ドイツ軍高射砲は全体で1916年中に322機、1917年中に467機、1918年中に748機を撃墜していますが、1918年9月から大量配備された改良型の時計信管によって9月単独の撃墜戦果は132機、10月単独の撃墜戦果は129機に及んでいます。

 さて、このような優れた防空システムを持ったドイツ軍は恵まれていたのでしょうか。
 これは微妙な問題です。ドイツはフランスから目と鼻の先に産業中心が存在するという極めて厄介な立場にあります。自分が海を越えてイギリスを爆撃できるのですから、敵はもっと容易に西部戦線を越えてルール地方を叩きに来ると誰もが考えます。もし軍需生産の心臓部が容易に空襲される虞があるならば、何を措いても第一次世界大戦当時の最高水準で防空システムを構築しなければなりません。

 一方、イギリス本土は適当に前線から引き抜いた戦闘機に守らせていても何とかなってしまいます。長距離夜間爆撃作戦のために戦闘損失が無くてもドイツ軍が事故損失に耐えられずに自分から作戦を中止してくれるほどなのですからドイツに比べてはるかに楽な立場にあったといえるでしょう。確かに防空システムそのものは立派なものでしたが、戦争中期以降、ただでさえ乏しい資源と人員をそこに注ぎ込まねばならなかったドイツは紛れもなく窮地にあったのです。

12月 25, 2008 · BUN · 4 Comments
Posted in: 第一次世界大戦

4 Responses

  1. king - 12月 25, 2008

    第二次大戦でルール地方に配備された高射砲数が日本全土に配備された高射砲数と同じと資料で読んだことがあります。また、ドイツの防空体制が異常に発達した理由が分からなかったのですが勉強になりました。

  2. BUN - 12月 26, 2008

    kingさん
    日本本土の高射砲数は恐らく陸軍高射砲部隊の配備数だけが取り上げられているのではないかと思います(ある資料から容易に集計できますので)。
    でも日本には海軍の高角砲や機銃もありますし、陸軍高射砲の配置も地域的に満遍なく配置されている訳ではありません。このあたりは単純に比較できない部分ですよね。

  3. uuchan - 12月 26, 2008

    ドイツの88mmが優秀だったのはWWⅠからの蓄積があったためでしょうか。
    高射砲塔などもありますし。
    高射機関砲もみていると強そうです。
    wwⅡを理解するにはwwⅠからしっかり理解する必要があることを勉強させられています。

  4. BUN - 12月 27, 2008

    uuchanさん
    我が九九式八糎高射砲がWW1当時のドイツ88mm砲ですものね。

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