帝政ドイツの航空軍備

 第一次世界大戦はご存知の通り飛行機、戦車、潜水艦といった新兵器が登場した戦争です。中でも軍用機の発達は著しいものがあり、戦場上空を敵味方の飛行機が飛び交うだけでなくドーバー海峡を越えてロンドンへの長距離爆撃が行われ、航空母艦と艦上機まで誕生しています。けれどもこうした軍用航空機は最初に実験的に戦場に投入された頼りない新発明品が、あれこれと実戦経験による試行錯誤を重ねることによって急発達したものと思ってしまいがちですが、事実はちょっとだけ異なります。世の中の様々なものと同じように軍用機も事前に準備されていたからこそ発達できたのです。航空機を兵器として用いる発想はそれこそ飛行機の誕生と共にあり、近代軍隊にとって航空機に対する期待は最初から極めて大きなものでしたが、そんな第一次世界大戦以前のドイツ航空軍備について紹介します。

 ドイツの航空軍備は軍用飛行船によって始まります。ツェッペリン飛行船の誕生と改良を認めたドイツ陸軍省は兵器としての採用を検討し始めます。飛行機の黎明期において飛行船はその搭載量(できるかどうかは別として当然のように「爆弾を積む」ことが最初から考えられています。)と航続力で飛行機を大きく上回っていましたから、当然といえば当然の方針です。しかし、飛行船に対してはその扱い難さとコストの高さに対して疑問を投げかける勢力があり、特に参謀本部は飛行船よりも飛行機を支持する傾向にありました。

 飛行船より飛行機に将来性を感じる参謀本部はライト兄弟と交渉を開始しますが、陸軍省はこれを拒絶、飛行機に重点を置くフランス陸軍を横目に眺めてドイツ陸軍は飛行船隊を整備し始めます。1908年末のことです。ここで飛行機主体のフランス陸軍、飛行船主体のドイツ陸軍と、ヨーロッパの軍事航空には二つの大きな流れが生まれるのですが、飛行船で空中艦隊を編成するという派手な構想が実行に移された背景には当時の航空ブームがあります。ライト兄弟は世界的なスターでしたし、ドイツ国民にとって母国の巨大な飛行船は新しい時代の到来を象徴する科学の産物で大きな誇りでした。1908年夏に結成されたドイツ航空連盟は1909年には3000名の会員を持つ組織となり、航空に関するロビー活動も活発に行われています。そんなドイツ国内で飛行船による空中艦隊実現を最も強く望んだ人物の一人がほかでも無いヴィルヘルム2世でした。ドイツの空中艦隊は皇帝から国民まで巻き込む大ブームの中で産声を上げたのです。軍用ツェッペリン飛行船の第一号(Z1)は1909年に採用されています。

 仮想敵であるフランス陸軍はドイツと同じく1909年から軍用航空機の本格的採用に踏み切り、軍用の航空機を購入し始め、1910年の演習から飛行機と3隻の飛行船を参加させています。しかしフランス陸軍は飛行船が前々からの評判通り天候に影響を受けやすく、演習中も強風と地形によって着陸が大幅に制限されたことから空気より重い「重航空機」優先の航空軍備に傾くようになり、飛行機の大量発注を行います。1910年から1911年にかけてのフランス陸軍の飛行機発注数は200機以上に及びます。ライト兄弟から何年経っていたかを考えるととんでもない発注数ですが、フランスが飛行機重視の航空軍備を明確に打ち出せた理由のひとつには小型航空発動機の開発がドイツよりも一歩進んでいた点です。ドイツには飛行機に搭載する適当な自国製航空発動機が無く、飛行機を発達させようにもその基盤に乏しかったという事情があります。

 フランス陸軍の「重航空機」重視政策に危機感を募らせた参謀本部は陸軍省に対して飛行機を主力とするように働きかけますが、陸軍省としては飛行船隊建設のために既に巨大な予算が投じられていることを理由に飛行船重視政策を維持します。飛行船工場にも膨大な設備投資が行われ、乗員の訓練も進められていた上に、脆弱な飛行船を守る巨大格納庫の建設も進んでいたために航空軍備方針の転換は容易ではなかったのです。このように組織的かつ大規模なインフラへの投資と共に飛行船による空中艦隊建造計画が進んでいたこと、ドイツにおける飛行船ブームが単なる表面的流行に終わっていない点は重要です。さらに陸軍省は「フランスの飛行機重視政策は飛行船分野におけるドイツの優位を維持、継続できる」「飛行船はドイツ航空優位の象徴である」と主張し、飛行船技術の流出を警戒した輸出制限をも求めます。もはやドイツ軍用飛行船計画は後戻りできません。飛行船に否定的だった参謀本部もやがて表立っての反論を控えるようになります。

 そんな流れの中で1912年を迎えるとドイツ陸軍はツェッペリン大型飛行船を10隻保有するまでになります。1912年秋の参謀本部計画では飛行船15隻による爆撃部隊の編成計画が決定され、1914年の配備が目標とされます。この飛行船爆撃部隊の支持者は当時のドイツ陸軍参謀総長だったヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ)です。モルトケは飛行船爆撃部隊の価値は長距離戦略偵察任務だけではなく「開戦劈頭の第一撃能力」にあると明言し、将来の戦争では可能な限り多数の飛行船と飛行機を投入することになると主張して、陸軍省へ航空機増産を進言しています。

 「最新のツェッペリン飛行船は他国が持ち得ない強力な兵器であり、開戦時に爆撃による強力な一撃を加えることで、物理的にも士気の面でも重大な効果を挙げることができる」と、まるで1920年代の有名な航空戦略家のような主張を持っていたのがモルトケの面白いところです。参謀総長が音頭をとる以上、計画は着々と進み、1913年には夜間爆撃作戦も研究されるようになります。まだ高射砲も戦闘機も無い時代ですから飛行船は空にある限り無敵の存在です。防御不能の飛行船爆撃隊が敵主要都市上空へ奇襲的に侵入して爆弾の雨を降らせたらどうなるか、モルトケを始めとするドイツ陸軍中枢の将校達はそれを想像できたわけです。

 さらに面白いところは、この飛行船爆撃部隊が総司令部直属だったことです。爆撃と長距離偵察にあたる空中艦隊は戦略部隊として集中的に用いられるよう配慮されていたということで、第二次世界大戦時の各国戦略爆撃部隊と基本的に同じような運用構想をドイツ陸軍が第一次世界大戦前に着想できていた点は見逃せません。けれども現実には飛行船とは天候によって活動が大きく制限される欠陥は変りませんし、水素ガスを充填した気嚢はそれだけで危険物です。ツェッペリン飛行船はそれ自体、危険で建造が困難であるばかりでなく、脆弱な船体を守るための巨大格納庫を必要とする金の掛かる存在でした。1914年7月にZ9号(全長158m 200馬力発動機3基、容積22740立方メートル 価格86万マルク)が配備されたところで開戦となります。当時の実働ツェッペリン飛行船は合計7隻でした。飛行船艦隊は文字通り話半分の状態で世界大戦に突入します。

 次は飛行機についてです。小型航空発動機でフランスに遅れをとったドイツでしたが、小型航空発動機が無いわけではありません。隣国のオーストリア・ハンガリー帝国にはダイムラー社があり、そこではほぼ満足できる性能の小型航空発動機が製造されており、それを搭載する比較的優秀な飛行機も製作されていました。ドイツはこれに目をつけてダイムラー製の発動機の導入を図り、軍用飛行機の充実を開始します。

 まだ性能面でも不十分で飛行船に負けず劣らず信頼性に欠ける飛行機でしたが、参謀本部は軍用飛行機の用途を短距離偵察、砲兵観測に置いて、野戦軍の下に大量配備しようとします。総司令部直属の戦略飛行船部隊と野戦軍に属する戦術部隊という近代空軍によく見られる形態です。これサラエボあたりで騒ぎが起こる前の話ですから面白いったらありません。

 モルトケは当時、持てるだけの飛行機を最大限保有するとの方針を持っていましたから、1912年の飛行機発注300機(フランスの前年発注数が200機だったことに注目)に始まり1914年の発注は432機に増加します。倍増、倍々増といかないのはドイツ国内の航空機工業が未発達だったからですが、それでも1914年にはAlbatros、Aviatic、LVG、Gothaer Waggonfabrik、Fokker、LFGなどの大手が出揃い、これらはそれぞれ数百人の作業者を擁し、工作機械の導入による量産体制を備えた工場を持っています。

 この大手各社が戦時航空機生産の中核工場に指定されるのですが、「戦時大量生産」と来ればその次に来るのは「規格化、統一化」です。先に紹介したダイムラー製発動機を標準としたほか、機体もオーストリア・ハンガリー製のエトリッヒ・タウベを標準軍用機として各社で生産する体制が整えられたのです。1914年秋の青島攻略戦で日本のモーリス・ファルマンを翻弄した1機のタウベがありましたが、極東の地の果てにまで何故かタウベがあったのはこんな背景があるからです。

 総司令部直属の長距離爆撃部隊、航空基盤の整備、乗員養成、大量発注による航空機工業育成と集約化、戦時航空機量産体制、発動機と機体の標準化、統一化・・・・第一次大戦前のドイツ帝国で現実に起きていたことだと言ったところで、多分、誰も信じないでしょう。

11月 12, 2008 · BUN · 4 Comments
Posted in: ドイツ空軍

4 Responses

  1. マンスール - 11月 17, 2008

    たとえ当時は迎撃手段が乏しかったとはいえ、水素の大袋プラス防弾設備皆無という根本的な脆弱性を抱えた飛行船に大きく掛けた、という点が興味深いです。第一撃で相手を壊滅させるからいい、と思っていなかったことは飛行機の充実も図っていたことから明らかですので、当時の担当者の言い訳を聞いてみたいものです。
    重箱の隅で申し訳ありませんが、「Gothaer、Waggonfabrik」は「Gothaer Waggonfabrik」(単一の会社名)のことでしょうか。

  2. ペドロ - 11月 17, 2008

    >飛行船に大きく掛けた

    対仏戦だけでなく対英、対露戦も意識していたとすれば、航続距離という点で飛行船が戦前注目されるのもやむなしでしょう。ゴータGやハンドレペイジが出てくるのはようやく大戦後半ですし。

    それにしても航空機銃がなくてレンガを投げつけた、なんてエピソードからは想像もできない充実振りです。俗耳に入りやすい小話の外の世界はなんと広いんでしょうか。

  3. BUN - 11月 18, 2008

    マンスールさん

    御指摘の通り「Gothaer Waggonfabrik(Gotha)」と書くべきでした。ありがとうございます。

    ペドロさん
    飛行船への機関銃搭載は開戦前に決定していますから「空中で撃つ」ことは予想されていたようですね。

  4. 本城宏樹 - 5月 1, 2017

    大変興味深く拝読させて頂きました。
    小生もWW1当時のドイツ軍の飛行船運用について調べており、とても参考になりました。
    さて、細かいことで済みませんが、
    >1912年を迎えるとドイツ陸軍はツェッペリン大型飛行船を10隻保有するまでになります
    これが俄かに信じられません。当時の軍用飛行船はLZ3、LZ9(海軍)、LZ14、LZ15(初飛行は13年1月)の4隻だけの筈…です。
    後に徴用されるDELAG社の船を加えても、10隻には及びません。
    計画上の話でしょうか?
    出典等あればご教示頂けると幸いです。

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