アルメデレール以前 15 (やっと実現した改革)

 フランスは航空機生産能力で世界随一の実績がありながら西部戦線の航空戦の主導権を握ることができず、地上軍の攻勢でも決定的な勝利が得られません。しかもフランス軍用機の品質は粗製乱造で低下し、部品供給も逼迫、戦闘での損害以上に事故や工作不良、老朽化による消耗が大きく、それを超えるレベルで増産を行うには労働者も資源も不足しています。陸軍省の増産計画に逆らってまで陸軍総司令部が強く求めたのはいたずらな増産ではなく、軍用機の性能と品質の改善だったのです。

 けれどもこうした事態は単純な無能の産物ではありません。フランス軍機が旧式機揃いなのは戦争初期から実施されていた重点機種へ生産集中によって機種の更新が困難だったこともひとつの原因です。軍用機各機種の削減やライセンス生産の促進など既に着手されていた施策は数多かったのですが、それらが実を結んでいない上に新規開発の方向性も定まっていないという事態が陸軍省と陸軍総司令部の焦りと対立を生んだとも言えます。

 そんな切羽詰った時期に任命されたヴァンサンはまさに待望の人材でした。陸軍大臣辞任時のどさくさに紛れて提出された第一線兵力4000機への増強計画は陸軍総司令部から「非現実的である上に必要ですらない」と批判されますが、その批判の源にある新機種への更新と品質の向上に対する要求を汲み上げながら軍用機増産計画を断行したのがヴァンサンです。

 陸軍省の掲げる4000機計画を妨げていた第一の要因は労働力問題でした。ヴァンサンはまずこの問題に着手します。1917年にもなるともはや新規に徴用できる労働力はありませんから、軍用機増産は砲兵関連の兵器生産と自動車生産に充当されていた労働力の転用しかありません。労働力の転用はそれほど抵抗を受けずに認められます。「軍用機生産を最重点とする」という了解が陸軍内でまとまりつつあったことと、軍用自動車をアメリカに継続的に大量発注できる見込みが立ったからですが、フランス陸軍内でも 1916年の衝撃的な体験を経た1917年ともなれば軍用機は最重要兵器となっていたのです。

 労働力の増強をとりつけたヴァンサンは、今度はそれをかざして軍用機メーカー各社と交渉を開始します。新機種への転換と重点機種のライセンス生産を受け容れなければ徴用労働者の再配分を行うと恫喝したのです。自社設計機に固執せず重点機種のライセンス生産を行えとの強制です。この強硬姿勢は効果的で、スパッド、ブレゲー、サルムソンといった高性能機の大量生産に向けての準備が急速に進みます。こうして機種を削減することで増産が促進され、補用部品の供給問題も解決し、優秀な工場が優秀な機種を生産することで品質問題も大幅に改善されるという考え方です。

 ヴァンサンは軍用機増産の鍵となる大馬力発動機の生産を促進するために発動機の分野においても重点機種のライセンス生産を押し進めようとします。また、部品生産体制の裾野を広げるために新規の下請け工場も大幅に増やされ、軍用機関連の工場は1916年末の39施設から1917年秋には62施設に増加しています。戦争末期のフランス航空工業は戦前の小規模作業所の集まりから、多数の下請け工場を従える巨大な産業へと変容していたのです。

 さらにヴァンサンは軍用機と航空用発動機の購入価格引き下げ交渉を開始します。購入価格の引き下げ交渉はそれまでも幾度ともなく繰り返されて来たのですが、その度に難航し、特に航空発動機メーカー各社は様々な理由を挙げて拒絶してきたという経緯があります。しかし、これも単純な話ではなく航空工業各社にも言い分はありました。その反発の大きな理由として、フランスでは1916年度に企業の戦時利益に対しての大増税があります。それまで25%だった課税率が75%にまで引き上げられたことが航空工業各社の増産意欲を著しく削いでいたのです。この増税はガブリエル ヴォワザンがライセンス生産を拒否し最終的に航空工業から離脱する原因ともなっていました。ヴァンサンはこの利益問題に対しても、各社への支払いサイトを短縮することで金利負担を軽減していくらかの補償を行おうと試みます。

 このように元爆撃機乗員とは思えないほどに目配りが利き、しかも恐ろしく精力的なヴァンサンは日を追うごとに航空工業界と対決するようになります。それまで独自の地位を築いていた航空工業界はその内情にまで立ち入ったヴァンサンの干渉と労働力配分を楯に取った強引なライセンス生産政策の強要が我慢ならなかったのです。こうして1917年春からのフランス軍用機大増産という具体的な実績を挙げることができたものの、その強硬な政策によって敵対関係となった航空工業界が後押しする勢力との政争に巻き込まれて1917年9月にその任を終えます。

 結局、1917年の軍用機生産は合計で14915機に達し、月産機数も1917年1月の846機から12月の1576機へと増大しています。しかしよく見ると生産が最も伸びたのは、月産832機から1226機へ増加した2月と3月で、ヴァンサンの新政策が結果を出したにしてはちょっと効果が早すぎるような気もします。改革が急速に進んだ背景にはヴァンサン個人の功績に加えて、他にも隠れた要因があると考えるべきでしょう。

 ヴァンサン改革の追い風となった要因は二つ考えられます。陸軍省と事あるごとに対立していた陸軍総司令部もニヴェールから攻撃的航空戦を支持するペタンへと代替わりして、陸軍省の方針と歩み寄る姿勢が見られたことが一つ、そして、もう一つはアメリカの参戦です。今までフランスの航空工業を原材料の供給で支えていたアメリカが直接戦争に加わる形勢となり、フランスは軍用機と航空発動機をアメリカに直接発注できる見込みが立ったことです。4月のアメリカ参戦を待たずにアメリカ側からフランスの軍用機生産についての非公式な調査が始まり、航空工業界には軍用機の発注がアメリカに奪われかねないとの警戒感が生まれます。その結果、フランス国内の航空工業各社の発言は穏当なものになり、陸軍省の立場は今までに無く強まります。近い将来確実に発揮されるだろうアメリカの強大な生産力はフランス国内の航空工業各社にとって間違いなく脅威だったのです。

 フランス陸軍航空隊は1918年の航空戦に向けて大規模な戦闘機隊と強力な爆撃機隊を持つ攻撃的航空戦を戦える本物の空軍へと進化したと言えます。1917年中、アルバトロスDIIIに苦しめられながらもスパッド13の発動機不調のために生産が継続されていたニューポール17を引退させ、ブレゲー、サルムソンの新型爆撃機、偵察機を増強するという全面的な機種更新計画の見込が立ったことで、前線を越えて敵陣後方で活動できる実力を身につけたフランス陸軍が次に試みたのは、新しい航空戦ドクトリンの策定でした。

1月 27, 2010 · BUN · No Comments
Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産

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