アルメデレール以前 8 (「フォッカー伝説」の実態は?)

 のんびりしたファルマンやヴォワザンがどんなに重要な任務を担っていたかという話は確かに理屈ではわかっても、何だか腑に落ちない感じがします。牧歌的なプッシャー機は何だか空の戦いには不似合いな気がしますし、第一次世界大戦の航空戦にはもっと別の世界があるような気もします。たとえば単発単座の勇壮な戦闘機の世界はどうなっていたのでしょう。戦場上空の制空権を争って火花を散らす単座戦闘機とそれを駆るエース達の戦いこそ航空戦の主要部分を占め、航空部隊の主力であり第一次世界大戦に咲いた空の華のように思えます。

 けれども世界大戦当時、軍用機とは二人乗りの飛行機のことです。軍用機の機上では前席が飛行機を操縦し、後席が偵察や観測、航法などの軍隊が飛行機上で必要とする仕事をこなします。空中戦も軍隊としての仕事の一部ですから後席乗員が主体となります。この原則は現代でもそれほど変わりありません。前席の乗員が操縦だけでなく戦闘をも兼任するということは何か特別な事情があってやむにやまれぬ選択の結果と考えるべきもので、軍用機の歴史の中で眺めるならば零戦やBf109などといった飛行機はむしろ傍流なのかもしれません。

 そもそも単座機を戦闘に用いるには武装を何とかしなければなりません。銃砲を装備するにしても旋回式には装備できませんから前方に向けて固定装備するしかありません。前方に固定装備した場合、トラクター式の機体であるならばプロペラが邪魔になります。プッシャー式の機体なら問題になりませんが、敵より早くて上昇力のある敏捷な機体を作ろうとするとトラクター式の方が良い機体が揃っています。モランソルニエ単葉機もそうした機体のひとつでした。

 モランソルニエ単葉機はプロペラ越しに銃を撃つという問題を非常に単純な方式で乗り越えようとしています。それはプロペラブレードの裏側に取り付けられた跳弾板です。地上実験で回転するプロペラに機関銃を発射してみると10発に1発程度しかブレードに当たらず、殆んどの弾丸がすり抜けてしまうことから、ブレードに装甲板を取り付けて数少ない弾丸を跳ね除けてしまおうという発想です。この方法だと射撃を続けているといつか被弾の衝撃でプロペラに不具合が出そうな気がしますが、確かにその通りで、それを承知で様子を見ながら運用する必要のある奇策の一つでした。

 しかし前方固定銃を射撃できる単発単座機は当時、最も身軽な軍用機というか、軍用機はなれした例外的機体でした。フランス軍にもモランソルニエ単葉機装備の飛行隊は1914年末の時点でMS3、MS23、MS26のたった3つしかありません。そのうちのMS23にモランソルニエのテストパイロットでもあったガロが配属され、自らのメカニックと共にこの大胆な改造を愛機に施します。そして前方固定機銃をプロペラ越しに発射できる単発単座機が敵機を攻撃しやすいことを自ら証明します。ガロは1915年4月1日から18日の間にドイツ軍機3機を撃墜したからです。しかし「いつか壊れる」ことを承知でプロペラ裏側の装甲跳弾板でぶつかる弾丸を弾き飛ばしながら射撃するというガロの男らしい発想は確かに勇気の産物でしたが、発明ではありません。なぜならモランソルニエ社には既に機関銃とプロペラの機械的な同調装置についての概念があり特許を持っていたからです。機関銃の機械式同調装置はガロが居ても居なくてもじきに登場したことでしょう。

 そして運の悪いことにガロは最後の撃墜を記録した4月18日に特殊装備の愛機と共に撃墜されてしまいます。一説には歩兵の小銃射撃によって墜とされたとも言われますが、ガロは不時着の後に機体を破壊することができず、こうして跳弾板つきモランソルニエがドイツ軍の手に渡ります。機体を手に入れたドイツ軍は新装備に注目し、アントニー フォッカーはその概念を参考に機械式の機関銃同調装置を短期間で設計し自らの単葉機に装備したと言われますが、ガロと同じくフォッカーも発明者ではありません。1913年にLVGの技師だったシュナイダーが同調装置の特許を取得しており、賢明にもそれをしっかり認識していたドイツ陸軍技術関係部署がその情報をフォッカーに与え、両社の法的な折り合いをつける作業までかって出た上で実現した短期開発だったようです。

 こうして出来上がった戦闘機はフォッカーEIと名づけられ、ドイツ戦闘機隊の先達であるオズワズルド ベルケやマックス インメルマンといった天才たちがその手腕を思う存分発揮することでフランス軍機を圧倒して航空優勢を確立、「フォッカーの懲罰」として知られる空軍史に残る大活躍を成し遂げた・・・といった話をどこかで読んだような気もするのですが、現実はちょっと違うようです。

 1915年6月から実験的に配備されたフォッカーEIですが、そもそもフォッカーの機関銃同調装置はモランソルニエよりは論理的な産物ではあっても、必ずしもモランソルニエより安全な機構ではありません。新奇な機構を持つゆえにおっかなびっくり使われていたフォッカーEIは案の定、盛大にプロペラ射貫事故を起こし、それに起因する連続墜落事故の結果、ついにドイツ陸軍はこの機体の飛行停止を命令し、後方での機種転換訓練も中止してしまいます。ベルケやインメルマンの「個人的」活躍の裏で兵器としてのフォッカーEIは落第していたのです。

 「ベルケやインメルマンを先頭に広範囲に活躍したに違いない」と何となく思っていたフォッカーEIはそんな飛行機でしたから、当然、量産も進んでいません。フォッカーEIは1915年6月の実験配備開始から、もはや旧式化してしまった1916年初頭までその保有機数は多くても40機をさほど超えません。しかも秋にはフォッカーよりさらに機敏で飛行性能に優れたニューポール11、通称「べべ」が登場してフォッカーEIの「夏」を終わらせてしまいます。しかし忘れてはならない点はこのニューポール11もまた千数百機の第一線配備機の中でフォッカーと同程度の機数しか配備されていないことです。

 ドイツ陸軍がフォッカーEIを徹底して軽んじていたことはその生産体制にもよく現れています。当時、すでにライセンス生産による重点機種の複数工場での生産は常識化していましたが、フォッカーEIはこうした重点機種に選定されることなく、開発元一社のみで実に細々と生産され、最盛期でも月産30機台でしかありません。世界初の専用の戦闘機であり、革命的な兵器であったはずのフォッカーEIの量産はその体制も実績も本当に情けないものでした。

 それではドイツ陸軍は同調機関銃そのものを軽視していたのかといえばそれも違います。熟成され信頼が置けるようになって来た機関銃同調装置は複座の偵察爆撃機であるC型機(武装複座機)に装備されるようになり、複座機に装備された同調装置はドイツ軍偵察機を鈍重なフランス軍爆撃機にとって恐るべき敵に変貌させます。ドイツ陸軍にとって同調機関銃を装備する機体は別にフォッカーEIでなくても良かったのです。しかも敵爆撃機が来ない日には融通の利かないE型機(武装単葉単座機)とは違って、偵察でも爆撃でもそれこそ「何でもできた」のですから、兵器としてどちらが有望で優秀だったかは現代から見ても明らかでしょう。

12月 31, 2009 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ空軍, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産

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