即席空軍大国 9 (戦略爆撃の夢)
連合国が望み、アメリカが選択した軍用機生産計画を担う三機種のうち、複座偵察爆撃機、複座戦闘機に続き、最後に控えるのが戦略爆撃機です。
航空機が未発達だった第一次世界大戦で「戦略爆撃機」とは大袈裟な、と思われる方々も多いことでしょう。けれども敵国の中枢に戦略的な攻撃を加えて国民の士気を崩壊させて戦争継続を困難にする、という発想は開戦前から存在します。ドイツ陸軍の飛行船部隊はそのために整備されたものですし、開戦後もドイツにとってドーバー海峡に守られた厄介な敵国であるイギリスを戦争から脱落させるためにイギリス本土空襲が飛行船と大型爆撃機によって継続されていました。
このように明確な戦略上の目的で行われた爆撃作戦の実績があってこそ、戦後にイタリアのドーウェ、イギリスのトレンチャード、アメリカのミッチェルといった戦略爆撃主義者たちが一斉にその主張を展開できたのです。彼らはそれぞれ独自の発想で語り始めたのではなく、世界大戦で誰もが経験した事実から得られた将来の戦争に対する予測を語っています。ですから誰の主張を取り上げてもその内容がよく似ているのは当たり前でした。ドーウェが語る空中巡洋艦隊のような空軍は彼の妄想の産物ではなく、実際に発動機の馬力でドイツを圧倒していた連合国が1919年になれば装備できたはずの複座以上の万能機から生まれています。第二次世界大戦の航空戦史の常識からは異様に見えますが、世界大戦終結当時としてはリアルな発想だったのです。
ドイツが大型爆撃機によって敵国本土への爆撃を実施する一方で、連合国もまた対抗できる大型爆撃機の製造を試みています。イギリスのハンドレページ0/400重爆撃機や、イタリアのカプロニ重爆がそれです。アメリカでの国産化計画がこの2機種を対象としたのは自然な流れでした。けれどもアメリカでヨーロッパの機械製品を大量生産する場合、手仕事で作業をこなしていた熟練工向けの図面類を、機械加工主体で一般的な非熟練作業者が作業できるようなものへ翻訳する作業がつきまといます。大型爆撃機とてその例外ではありません。
そして基礎となる図面類のアメリカへの到着も遅れに遅れます。しかも大型爆撃機は当時の先進技術ですからカプロニはアメリカへの製造資料引渡しに懐疑的な態度を見せるなど他の機種では見られない苦労もありました。さらに問題なのはヨーロッパ製発動機を搭載したこれらの爆撃機の性能は最大速度、上昇限度ともに満足できる水準になく、鈍重な大型機はますます精度と威力を上げつつあるドイツ軍の対空火器によって使い物にならなくなる日も近いと予想されています。「量産機が出る頃には旧式化」というライセンス生産のマイナス面がここでも現れる訳ですが、その対策は当然、リバティーへの発動機換装計画となり、ただでさえ遅れ気味の再設計作業がこれでまた遅れることになります。
こうして1918年11月の休戦までの部隊配備はついに間に合わず、アメリカ製ハンドレページもカプロニも幻の爆撃機に終わってしまったのですが、外国機のアメリカナイズが苦戦する一方で、だったらもう少しまともな性能の機体を最初から設計した方が早いのではないかという至極真っ当な考えも芽生えます。そして国産大型爆撃機の設計はグレンマーチンに任せられます。しかしこちらもやはり間に合いません。
一番良好な性能だったリバティー搭載カプロニ爆撃機とマーチン爆撃機の性能を比較してみます。
カプロニ爆撃機(リバティー搭載)
最大速度 165km/h(海面上)
上昇時間 10000フィートまで28分42秒
13000フィートまで46分30秒
総重量 5607kg
マーチン爆撃機
最大速度 189 km/h(海面上)
上昇時間 10000フィートまで14分
15000フィートまで30分30秒
総重量 3694kg
こうしてみると、より新しいアメリカ設計のマーチンMB-1の方が締まった設計で飛行性能も優れていることがわかります。リバティーに換装してもハンドレページやカプロニではドイツ軍の対空砲火を避けて高空を飛び、夜間爆撃を実施し続ける実力は無かったともいえるでしょう。当時のアメリカ工業界の底力、技術吸収の早さが光って見えます。このようにアメリカ陸軍爆撃機史の冒頭に位置する古典的機体に見えてしまうマーチンMB-1は当時としてはアメリカの国力を象徴する期待の星でもありました。
そしてマーチンMB-1で編成された戦略爆撃機部隊は1919年度にはドイツ国内に侵入し、ルール地方の工業地帯を破壊する作戦に投入される予定でしたが、この作戦を指揮するはずだったのが、ミッチェルです。ドイツ軍の戦略爆撃を実地で学び、自国製の大型爆撃機の製造が進むのを目の当たりにしながら休戦を迎えたミッチェルの失望たるや、想像以上のことだったでしょう。戦後に最も声高で扇動的な航空主兵論者となる裏にはこうした思いがあったのかもしれません。「1919年の夢」というものがあるとすれば、それはフラーが夢想したような、泥まみれの塹壕陣地に戦車の群れを放って、たかだか10キロか20キロ前進する程度の戦術的な話ではなく、大空を支配する大型爆撃機が地上戦の勝敗を超えた場所で戦争の行方を左右するという壮大な「叶わぬ夢」だったのです。
9月 7, 2009
· BUN · 6 Comments
Posted in: アメリカ空軍, 即席空軍大国, 発動機, 空軍論
6 Responses
さとうてらじ - 9月 8, 2009
最近、ブログを読み始めさせていただいております。本当に興味深く、楽しく読ませていただいております。戦争というのも社会活動の延長線上にすぎないと私はBUNさんの書かれたものを読むたびに気付かされます。市場を把握し、企画し、売り込み、作り、生産し、反響を見てまた企画する・・・。現場は日報をつけ、報告し、指示を受け・・・。
BUN - 9月 8, 2009
さとうてらじ様
いらっしゃいませ。
最近、ビジネスの世界で生半可な知識で軍事用語を使うことの恥ずかしさみたいなものを感じます。「ターゲッティング」なんてもっともらしい話をしても、なまじターゲッティングなんぞするから本質を見失うという実例ばかりが並んでいるのが現実の戦史です。
政治の世界でも「戦略」なんて言葉を安直に部署名に使われても白けるだけですよね。
豪腕少年タイフーン - 9月 10, 2009
超々弩級戦艦のブループリントや、超々々弩級の計画案を前に熱心に討議している連中にむかって、「俺がヒコーキで沈めてやる」なんて言い放っていた輩は、よっぽど頭がヘンだったのだと思っていました。が、おかげさまで、少しは納得できたようです。まずship strikeを考えてしまう私の方がヘンで、ふつうは当然「工業地帯を破壊する作戦」が目的になるのですね。「真実」には、彼らに何時からどのようなきっかけで、装甲艦をヒコーキで沈める発想(必要性?)が沸いてきたのでしょうか?雷撃機や航空魚雷はおろか、ロクなAP爆弾すら(運べ?)無い時代でしょうし・・・・
BUN - 9月 12, 2009
豪腕少年タイフーンさん
戦略爆撃構想も古い時期からありますが、
対艦攻撃構想もまた同じくらい古いんです。
水雷艇の泊地奇襲が飛行機に置き換えられたからこそ
最初から雷撃機が存在するんです。
泊地の静止した目標に低速、超低空で艦艇用の魚雷を投下するからこそ
十年式雷撃機は三葉なんですね。
けれどもミッチェルは海軍を敵に回していたから
魚雷が貰えないので爆弾でデモをした訳です。
とはいうものの、
第二次世界大戦時でさえ対主力艦攻撃は1000ポンド爆弾でも有効でしたから当時でも爆弾は大きな脅威ですけれども・・・。
栗田 - 9月 15, 2009
いつも興味深く読ませていただいています。
『移管生産でバタバタしている間に徒に商機が過ぎて・・・』なんて、他人事じゃないなと我が身を苦笑しつつふりかえったりしています。
BUN - 9月 16, 2009
栗田さん
ご感想ありがとうございます。
そうですね。この手の話はなぜか身につまされるところが面白いですよね。
Leave a Reply