「夏休み特番」 メルダースとガーランド 3

  フランス戦の航空戦はフランス降伏と共に対イギリス航空戦へと発展します。この二つの航空戦はそれぞれ別個のものではなく、連続して戦われたもので、そのためにドイツ空軍は戦力回復の期間がとれず、バトルオブブリテンでの息切れにつながってしまいます。メルダースとガーランドの戦いも同じように息つく間もないものです。

  特にメルダースは6月5日の戦闘で撃墜されてフランス軍の捕虜になるという経験を経て翌月には戦線に復帰していますからより大変です。6月5日のメルダース編隊はMS406とD520の編隊に攻撃を仕掛けますが、より高い高度にD520の編隊がいることを見落としてしまい攻撃に失敗、乱戦の中でD520によって操縦席を打ち抜かれて脱出を迫られます。D520もH75と同じくBf109の強敵ですが、ちょうどフランス戦時にMS406との機種改変中というめぐり合わせの悪さでその活躍はあまり目立ちません。ドイツのトップエースの撃墜はD520の戦歴に咲く数少ない花でもあります。

  III/JG53の指揮官であり空軍のトップエースの墜落は機体の炎上が認められながらも友軍が脱出を確認できていなかったことからパニックを引き起こします。メルダースの死亡が伝えられ、JG53内には絶望と困惑が広がり士気を大きく損ないます。メルダースのような大スターが空軍内でどれだけ尊敬され信望が厚かったかがわかりますが、結局、無事脱出して捕虜となり、しかもダンケルク包囲によって後方に護送されることもなく、敗北とやがて自らもドイツ軍の捕虜となる恐れがあった連合軍側があまり過酷な対応をしなかったことで休戦とともに空軍に復帰できています。

  トップエースにして優れた戦術家、国民的大スターのメルダース(フランス戦終了時39機撃墜 スペインでの14機撃墜を含む)と遅れて売り出し中の新エース、ガーランド(同時期までに14機撃墜)のバトルオブブリテンでの撃墜記録はほぼ同じ頃に始まります。メルダースは7月28日にドーバー上空でスピットファイアを撃墜し、ガーランドは7月24日に海峡のマーゲート上空でスピットファイアを撃墜します。1940年7月から10月末までの二人の戦果を比較すると面白いことがわかります。

メルダースの戦果
ハリケーン 15機
スピットファイア 14機
合計 29機

ガーランドの戦果
ハリケーン 17機
スピットファイア 14機
デファイアント 1機
合計 32機

  二人の戦果は29機対32機でガーランドがメルダースを追い越しつつある状況がわかりますが、撃墜戦果の誤認や誇大報告率を考えると大きな差とはいえません。それよりも二人が報告している機種はスピットファイアが同数の14機、ハリケーンが15機対17機で、ガーランドの方がハリケーンの撃墜数が2機多く、デファイアントの撃墜がある点でメルダースを超えています。そんなことを言っても同じような塗装で同じように液冷発動機を持つスピットファイアとハリケーンを果たして空中戦の最中に判別できたのか、と疑うのが当たり前だと思いますが、二人のスピットファイア/ハリケーンの比率はほぼ同じようなもので、どちらかに偏ることもありません。二人とも同じように誤認することもあれば、同じように正確な判別をしていたらしいということです。「少なくともメルダースとガーランドの撃墜機種報告は意外に正確かもしれない」という推定が成り立ちます。

  その後の対イギリス航空戦での成績も比べてみたいと思います。
1940年11月から1941年5月までの撃墜記録です。

メルダースの戦果
スピットファイア 10機
ハリケーン 4機
合計14機

ガーランドの戦果
スピットファイア 8機
ハリケーン 5機
合計13機

  メルダース14機、ガーランド13機という成績も見事に拮抗していますがやはりスピットファイアとハリケーンの比率は同じようなものです。エースとして出遅れたガーランドが戦場でもメルダースと同等以上に冷静な熟練パイロットだったことが想像できます。この時点で二人の実力はほぼ同等だったといえるでしょう。

  その後、二人の戦場は再び東西に離れてしまいます。メルダースはJG51を率いて東部戦線へ向かい、1941年6月22日からのバルバロッサ作戦に参加します。今度の敵は急速拡大を続けるソ連空軍です。一方的に撃破されたように伝えられる独ソ戦初期のソ連空軍ですが、現実には初日の奇襲攻撃による地上での大損害にもかかわらず激しい反撃を行っていたことがメルダースの記録からも明確に読み取ることができます。

1941年6月22日から11月の事故死までのメルダースの戦果
I-15bis 3機
I-16 2機
爆撃機他 15機
機種不明 14機
合計 34機

  この戦果のうち33機までが6月22日から7月15日までの一ヶ月足らずの間に記録されたもので、独ソ航空戦はバトルオブブリテン以上の慌しい戦いだったことが想像できます。そして今まで撃墜戦果の殆どを戦闘機の撃墜で占めていたメルダースの撃墜機種内訳はここで大きく変化します。機種不明を除いてもSB、Pe-2、Il-2を含む爆撃機撃墜数が総数の44%を占め、東部戦線の航空戦を特徴づける、敵味方の突破作戦が行われている最前線上空での激しい地上攻撃と制空戦という戦闘の実相を反映しています。撃墜機種が特定できないのはドイツ空軍にソ連空軍の情報が不足していたことを示していると思われ、おそらくはMiG-1/3か、LaGG-3が含まれているのだと想像することはできますが、確認することは多分、無理でしょう。

  このような連続した激しい空中戦が行われるのが東部戦線の特徴ですが、人家が少なく交通網も疎らなロシア国内では撃墜戦果の確認も容易ではありません。しかも進撃時には部隊は移動中ですし、後退時には空戦の行われた地域は敵の手に落ちてしまいます。敵味方の攻勢時に集中して大規模に発生する連続する激しい空中戦は驚異的なペースでの撃墜戦果伸張をもたらし、しかもその確認手段の不足が誇大報告を修正できないという東部戦線の事情がメルダースの撃墜記録にも反映されている可能性があるということです。メルダースの115機、または116機の撃墜はこうして達成されています。

一方、ガーランドは戦闘機部隊の主力が東部戦線に移動した後、引き続きドーバー上空での空中戦を続けます。

1941年6月から11月までのガーランドの戦果
スピットファイア 24機
ハリケーン 6機
ブレニム 6機
合計 36機

  Bf109FでI-15bisやI-16とも戦っていたメルダースに比べてガーランドの戦いの厳しさがわかる内容です。空中戦闘から遠ざかったメルダースと違い、ガーランドの戦いは平均して毎月続き、ガーランドの100機撃墜はその中で達成されています。そして100機撃墜後のガーランドもメルダースと同じように後方に下げられてエースとしての激しい戦いを実質的に終えます。

  戦闘機隊のエースにとって、実力と共に投入された戦場、時期などがその成績に大きく影響しているという当たり前といえば当たり前の結論がメルダースとガーランドという初期のエースを比較することであらためて実感できるのではないでしょうか。

8月 8, 2009 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ空軍

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