「夏休み特番」 メルダースとガーランド 2

  ガーランドがポーランド戦で地上攻撃に87回出撃という獅子奮迅の働きを示していたころ、メルダースは反対側の西部戦線で連合国空軍と対峙していましたが、開戦後まもなくすると連合国空軍戦闘機がかなり手ごわい敵であることが判明します。
メッサーシュミットBf109を凌駕する性能を持つと警戒され、そのためにBf109の後継機としてフォッケウルフFw190の試作が急がれていたイギリス空軍の新鋭機スピットファイアとの対戦報告はまったく無い代わりに、意外な強敵が出現したことが相次いで報告されたからです。その強敵はフランス空軍が装備していたカーチス ホーク75です。

  Bf109より低速で性能的にも目立たつ所がないH75ですが、ある程度高速でありながらBf109より軽快で上昇力に優れ、格闘戦を挑むと優れた旋回性能でBf109の後ろについてしまう厄介な敵の出現にドイツ空軍戦闘機隊は悩まされ、1940年6月のフランス戦終結までH75はBf109の強敵であり続けました。高度1000mでBf109が23秒かけて旋回し終えるのに対してH75は18秒で回ってしまうのですから最高速度と降下速度のみに優れるBf109がH75に対してまともに格闘戦を挑めば苦しい闘いになります。ドイツ空軍戦闘機隊が開戦と共に直面した「ホーク問題」です。フランス空軍H75部隊の健闘は単に後日、戦記をまとめたら意外に戦績が良かったというような戦記のトリビアではなく、空軍組織として解決を迫られた課題だったのです。

  このような敵機に対してBf109の優位点を生かした機動法を実戦と模擬空戦の中で考案したのがIII/JG53時代のメルダースです。平均的なパイロットにも習得できる単純な機動の連続でH75に対して有利な位置につける機動法は“Vati(メルダースの愛称)Curtiss Taktik”とJG53内で呼ばれ、やがて全軍に広まります。ある程度は高速で自分より旋回性能に優れる戦闘機と戦う戦術の確立はH75との勝敗よりも、その後のバトルオブブリテン以降に対決することになるスピットファイア対策として役立つものでした。

  ではメルダースは独自の戦術でH75を撃墜し続けたのかといえばそうでもありません。メルダースの機を初めて撃破したのはフランス空軍のGCII/4に所属するH75で、1939年9月8日のことです。このときにH75がもう少し執拗に攻撃し続けていたらメルダースは撃墜されていたと言われます。そしてメルダースが1939年9月の開戦から1940年5月10日のフランス侵攻までに撃墜したH75は2機(9月20日の1機と1940年4月20日の不確実1機。この間の撃墜総数はMS406 4機、ハリケーン2機、爆撃機1機の合計9機)だけです。メルダースの新戦法は対H75 1勝1敗の成績で編み出されているということになります。

  そしてフランス侵攻時のH75撃墜も、激しい航空戦があったにもかかわらず2機(MS406 4機、MB152 3機、ハリケーン2機、D520 1機、爆撃機4機の合計16機)でしかありません。メルダースの新戦法はどうもH75との実戦と勝利の経験から生まれたというよりも、メルダースの知見の中で生まれた理論的な発想だったように思えてきます。軍人を多く出した一族の中で教師の息子として生まれたメルダースはその生い立ちに相応しい理論派の戦士だったのかもしれません。

  さて、ポーランド戦を地上攻撃部隊で過ごしたガーランドは戦闘機隊に転属したい一心でリウマチのため開放座席のHs123は不適との偽の診断書を入手して戦闘機隊への転属を実現します。イレギュラーなやり方ですが密閉風防ならJu87というより安直な選択肢があったことを考えれば本人の戦績とその強い希望を知る上層部が黙認していた可能性もあります。そして戦闘機隊に復帰して訓練を受けながら、ガーランドは最新の戦闘機戦術を他ならぬメルダースから直接学んだと言っています。部隊が違い、しかも実戦に参加しているメルダースにそのような時間がとれたかどうか疑問が投げ掛けられていますが「一回くらい何処かで二人は飲んだのではないか」とも言われています。

  どちらにせよガーランドは戦闘機パイロットとしての技量を十分に身につけてフランス侵攻を迎えています。誰に学ぼうとフランス戦でガーランドは合計14機というメルダースに継ぐ撃墜を果たしてエースリストの上位にいきなり登場します。その撃墜記録の内訳は、ハリケーン4機、H75 1機、MS406 1機、スピットファイア1機、爆撃機7機です。
ガーランドもH75の撃墜経験はたった1機しかありません。数の上ではMS406に継ぐH75はエースたちにとっても手ごわい敵だったことが想像できます。

  さらにガーランドの撃墜記録にはスピットファイアが含まれています。これは6月2日のダンケルク上空で記録されたもので、ドイツ空軍で初めてスピットファイアを撃墜したパイロットはガーランドです。メルダースもパリ上空でスピットファイアの撃墜を主張していますが、これはドボワチンD520の誤認のようで、見たことのない高速の液冷戦闘機と遭遇したメルダースはそれをスピットファイアと判断したのでしょう。

  またフランス戦時のメルダースとガーランドはその撃墜記録の中にメルダースは4機、ガーランドは7機もの爆撃機を含んでいます。撃墜記録の殆どを戦闘機で占める両エースの記録でフランス戦時だけ爆撃機の比率が跳ね上がりますが、これも、地上軍がアルデンヌ地方を抜けてセダンを突破して連合軍主力をダンケルクに包囲するまで続いた進撃に対するイギリス、フランス空軍爆撃機部隊の猛反撃の反映でもあります。大損害を出して敗退した阻止爆撃作戦が二人のエースの撃墜記録を伸ばしたということで、エースの記録伸張とその内容には敵空軍の動き、作戦の内容が大きく関わることを示しています。

  1939年から1940年までの両エースの撃墜は非常に優れたものですが、ドイツ空軍に多数出現する100機以上の常識外れの超エース達の中では「あれ?」と思えてしまうスローペースです。このようなスローペースの理由は初期の航空戦がまだ小規模だったことも大きな理由です。出撃回数も伸びません。しかも敵には優秀な戦闘機が含まれ、敵のパイロットもまた優秀でした。そしてフランス侵攻までの戦闘は地上軍の視界内で行われた戦いも少なくなく、記録の審査も必然的に厳格になっています。通常、戦闘機隊の撃墜記録は50%程度の誇大報告率があるものですが、メルダース達の場合、敵の損害記録と突き合わせても誇大報告率は20%程度とされています。有力エースパイロットの戦果をそれに見合う敵側記録と突き合せると本人の戦果ではない損害まで引き寄せてしまいかねませんがそれでもこの当時の戦果はその後の東部戦線に比べれば狭い地域で戦われ、戦果確認が容易で下駄を履きにくいのです。戦闘の規模が小さくて正確な戦果確認が容易であるために大戦初期には「スーパーエース」が生まれていないということで、二人とも十分に「超」のつく世界有数のエースに違いはありません。

8月 8, 2009 · BUN · 2 Comments
Posted in: ドイツ空軍

2 Responses

  1. RS125 - 8月 8, 2009

    初めまして、いつも興味深い話を読ませてもらっています。

    フランスで戦ったホーク75の具体的な戦績を初めて知ることが出来ました。何だかビルマ・インド戦域の隼とスピットⅤの戦いの様な話が、フランス戦ですでにあったんですね。

  2. BUN - 8月 8, 2009

    こちらこそはじめまして。

    ホーク75は機体も戦歴もなかなか味のある戦闘機ですね。
    今回は本人はちっとも休めない夏休みのオマケで軽い話をまとめました。
    御笑覧ください。

Leave a Reply