「夏休み特番」 メルダースとガーランド 1

 第二次世界大戦でドイツ空軍戦闘機隊は数多くの超エースを輩出しています。100機を超える撃墜記録を持つエースパイロットが何人も存在する特異な空軍の中でメルダースとガーランドは最も早い時期に100機撃墜を達成した大戦初期の代表的なエースパイロットです。メルダースは天才的な技量と戦術眼によって知られる戦闘機隊のエリートであり、1941年11月に東部戦線から本国へ帰還する途中で搭乗していたハインケルHe111の事故で死亡するという悲劇の英雄でもあります。そしてガーランドはメルダースにひと足遅れて台頭したエースで、洒落っ気の強い態度と言動、エースらしい傲慢さを伴う親分肌の性格で人望もあり、一旦は戦闘機総監として後方に下がりながらも戦争末期には将官でありながら自らジェット戦闘機隊を率いて戦ったドイツ戦闘機隊最後の英雄でもあります。今回はこの二人の初期の戦果を比較してみたいと思います。

 エースとして先輩格のメルダースは1913年の3月生まれ、ガーランドは1912年の同じく3月生まれで、実はガーランドの方がひとつ年上です。このために軍隊に志願したのもガーランドが先で、1932年度にまだ非公然組織だったドイツ空軍に入隊して戦闘機パイロットとしての訓練を開始しています。1歳下のメルダースは翌年の1933年度に志願していますが、メルダースの軍歴は空軍ではなく陸軍工兵隊から始まっていて、地味な地上軍から華々しい空軍への転籍手続きを経てドイツ空軍のパイロットになったという経緯があります。ドイツ空軍の再軍備時代には成績優秀者のこうした転籍希望は歓迎され、この時期の陸軍は自らの機動戦ドクトリン確立に不可欠な空軍の充実に対して極めて好意的です。メルダースの空軍志願は1934年度ですから、空軍での軍歴はガーランドより2年後輩ということになります。ガーランドよりわずかに年下で、空軍で2年後輩という条件がガーランドとメルダースのスペイン内戦での活躍に大きな差をつけることになります。

 スペイン内戦はドイツ空軍にとって実戦での経験を積み、航空戦ドクトリンの改良にまたとない材料を提供した小規模戦争ですが、空軍将校として先輩のガーランドと後輩にあたるメルダースのスペイン内戦従軍は時期が異なります。ガーランドは1935年度に部隊配属されまだ共和国空軍がソ連空軍の支援を得て強力な存在だった1937年度にスペイン遠征に志願して3/J88に着任します。しかし部隊が装備していたのは旧式のハインケルHe51で、ソ連製戦闘機に対して優位に立つことができないこの機種を装備した部隊は主に地上攻撃任務に向けられます。フランコ派にはHe51よりましなイタリア空軍のCR32が多数あり、He51に戦闘機としての出番は少なかったということですが、ドイツ空軍の航空戦ドクトリンは第一次世界大戦終了時から戦闘機隊に地上支援任務を負わせていましたから、その反映であり、地上支援はドイツ空軍がスペインの戦場でその効果を検証したかった項目でもあります。

 スペイン内戦でこうした経験を積んだガーランドは空軍中央から見た場合、将来の機動突破作戦に重要な地上支援任務の実戦経験を持つ将校として位置づけられ、ドイツに帰還した1938年度にはヘンシェルHs123を装備した地上攻撃部隊であるII/LG2に配属されてしまいます。この人事は派手好きなガーランドにとってきわめて不本意でしたが、空軍にとってはその経験と実力を十分に配慮した配置で、不名誉な要素はまったくありません。ガーランドは複葉単座の攻撃機Hs123を駆って1939年9月1日の第二次世界大戦勃発と共にポーランド戦に参加して9月中の殆ど3週間程度の短期間に87回の出撃を記録します。87回です。別にルーデルでなくとも地上攻撃部隊はそのように戦う部隊なのです。戦闘機パイロットとしての撃墜戦果はなくとも実戦経験と闘志はメルダース以上だったことでしょう。

 一方、メルダースのスペイン内戦従軍はガーランドと入れ違いの1938年度になります。この時期の違いは重要です。メルダースは幸運にも優秀なメッサーシュミットBf109Dに乗ることができた上に、共和国空軍は海上封鎖とソ連軍顧問団の縮小撤退によって弱体化していたからです。1938年5月にガーランドの後を継いで3/J88に着任したメルダースはHe51で地上攻撃任務に就いていましたが、まもなく機種改変されて待望のBf109Dがやってきます。コンドル部隊初のD型です。そして7月15日に6機編隊で飛行中のメルダースは40機程度のポリカルポフI-15編隊と遭遇して乱戦となります。数に劣りながらも優秀な性能と既に弱体化した共和国空軍パイロットの錬度低下に助けられて損害を受けずに3/J88のBf109編隊は2機を撃墜し、そのうち1機がメルダースの初めての公認撃墜となります。

 このときのメルダースの戦いはあまり上手なものではなく、慌てて遠距離から射撃したことなどを本人も反省しています。こうした経験を積みながらメルダースは50mから80mでの徹底した近接射撃を空中戦の極意として体得し、2機プラス2機の4機編隊による空中戦術を考案し、この戦法はその後数年かけて世界中に広がります。メルダースがガーランドより尊敬され高く評価される所以です。11月までの数ヶ月間でメルダースは15機の撃墜を報告し、14機が公認されていますが、その内訳はSB爆撃機1機とI-15 2機を除く残り全てが単葉引込脚のポリカルポフI-16です。敵の機材も良くなっている訳ですが、もし最初の空中戦で遭遇した敵が錬度の高い選抜部隊であるソ連軍派遣パイロットの編隊であったなら、メルダースは「メルダース」になれなかったかもしれません。短期間の14機撃墜という功績は、その犠牲となる好い獲物があってのことなのです。

8月 8, 2009 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ空軍

Leave a Reply