金の切れ目のポーランド

 金の切れ目が縁の切れ目、運命の分れ道となった話にこと欠かないのが第二次世界大戦です。ポーランド空軍もその典型です。1918年に独立を果たしたポーランドは第一次世界大戦中、その国土が東部戦線そのものだったという不運に見舞われたために国内工業はほぼ壊滅状態で、1913年時に比較してほぼ80%、金額にして730億フラン相当の被害があったといわれています。しかも興廃した産業を復興させるために必死の10年を過ごしたところで世界恐慌に呑み込まれて失業率は25%以上を記録し、もともと脆弱な体質のポーランド経済は大打撃を受けてしまいます。

 そして早くも1935年には自力ではどうにもならない国内の航空機工業はヨーロッパで真っ先に国有化され、国営体制で新鋭機の開発と配備が進められます。戦闘機の模型が出ているので有名なPZLもこの時に国有化されています。この政策はとりあえず効果は上がり、今まで装備していたスパッド51/61、ブレゲー19といったフランス製の旧式機材の更新は比較的順調に進みます。ポーランド空軍と聞くと旧式機を装備した小国空軍というイメージがありますが、ヨーロッパで最も早く金属製戦闘機を装備した空軍はポーランド空軍です。少なくとも機体設計においては世界水準にあったと言えますが、この国の航空機工業の弱点は自国製の航空エンジンが無いことでした。

 1921年の同盟以来、フランスからの機体と航空エンジンの輸入とライセンス生産によって成り立ってきたポーランドの航空機工業は1930年代にはまだ自国製高性能エンジンを開発するだけの環境が整わず、まず人材育成と精密機械加工設備の導入から開始しなければならないような状態で、国産高性能エンジン製造にたどり着く前の、ようやくフランス製旧式機を金属製機の第一世代で何とか更新したところまでやってきて、そこでポーランドの航空軍備計画は力尽きてしまいます。イギリスならグラジエーターとバトルの段階です。ドイツならBf109BとJu86あたりに相当します。

 第二次世界大戦はナチス政権誕生から6年後に始まっていますから航空機材の更新はほぼ二世代目で戦争に突入したわけです。ここを乗り切れなかった空軍は「旧式機揃いの〇〇空軍は・・・」と市販の戦記に書かれてしまうことになります。そこで「旧式機」とひと括りにされてしまう飛行機達の本質は平和ボケした軍備政策の結果ではなくナチスドイツの脅威に対抗するために開発された第一世代の新鋭軍用機です。この第一世代の新鋭機を万難を排してもう一度更新できた空軍だけがドイツとの戦争を生き残れたのですが、1930年代末のポーランド国内経済は軍備拡張を原因としたインフレに陥り、外貨は底をつきつつあります。

 1939年までにポーランド国内の航空機工業は8社12,400人の作業者を擁し、1,127機のライセンス生産機、2,458機の国産機、3,550基のライセンス生産エンジン、150基の国産エンジンを生産して来ましたが、開戦必至の状況下でPZL11に代わる新戦闘機PZL50の開発は失敗し、高性能の双発爆撃機PZL37ロスの調達も絞られてしまいます。ポーランド空軍の現状では双発爆撃機部隊と戦闘機部隊の両者を充実させることは不可能でしたから、当面の問題として単発戦闘機の緊急輸入を行い、爆撃機生産を戦術的な不利は承知で単発機に切り換えるという苦渋の決断を下します。

 しかし1930年代末に第一線で通用する戦闘機を素直に売ってくれる国はまずありません。
イギリスとの交渉は最初から望み薄でした。スピットファイアを輸出する余裕があるはずもなく、ハリケーンすら余裕がありません。しかし粘り強い交渉の結果、1939年6月16日、ロンドンの駐在武官はハリケーン移送用のパイロット4名の派遣要請を打電します。ハリケーン14機の購入交渉に見通しがついたのです。

 14機という機数は余りにも頼りないものですが、それはイギリスが財政破綻しつつあるポーランドに対して定めた与信限度でした。しかし再軍備第一世代の新鋭機、つまり旧式機で数に余裕が出てきたバトルを月20機のペースで供給する交渉は「イギリスのポーランドに対する支援姿勢が本気であることをドイツに印象づける」との主旨で財務省の反対を押し切って7月に入って何とか成立し、イギリス国内での部隊編制(300飛行隊と301飛行隊)まで着手されますが結局戦争には間に合っていません。

 さらに悪いことに長く同盟関係にあったフランスもモランソルニエ406の譲渡を渋ります。自国空軍の再軍備さえ惨憺たる有り様だったからです。その次の交渉先はアメリカでした。ポーランドはアメリカとの交渉に最も期待していた様子があります。しかしここでも問題が起きます。ブルースター、カーチス、グラマンとの交渉の中でポーランド空軍の本命はカーチス ホークでしたが、この戦闘機の輸出は既にフランス向けの契約が締結済みで納期が危うく、その価格は143機、約800万ドルでした。

 一方でフランスが渋っていたモランソルニエ406の購入交渉はなぜか成立し、初秋からの140機引渡しが決定します。何のことはない、フランスはポーランドにモランソルニエ406を売って、その代金でカーチス ホークを買ったのです。仲介業者のマージン要求にも悩みながら続いたカーチス ホーク購入交渉は1939年7月21日、ドイツ軍侵攻の41日前にポーランド本国からの電報によって中止されます。

中止理由は「もはや外貨準備なし」でした。

10月 19, 2008 · BUN · 3 Comments
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3 Responses

  1. 早房一平 - 10月 19, 2008

    涙で画面が滲んでしまいました、干したタラでも売る物が有るだけマシなんですね。

  2. ペドロ - 10月 26, 2008

    てっきり「航空機生産」カテゴリーかと思っていましたが独立した一カテゴリーを立てられたのですね。
    一回目にしてポーランド空軍の戦争は事実上終了したも同然となっていますが、まだお話は続くのでしょうか?

  3. BUN - 10月 27, 2008

    なんと鋭い。
    ペドロさんの剃刀の如き考察には畏れ入ります。
    はい。続けます。まだあと少しだけ喋らせてください。

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