大陸間爆撃機はなぜ発注されたか?

 いよいよ超大型爆撃機B-36が出てくるところまでたどり着きました。アメリカがどんな形で第二次世界大戦を戦おうとしていたかという問題と長距離爆撃機の開発は表裏一体、切り離せないものがあります。ここまで読み進まれて「英国の敗北を予測してB-36を開発・・・」といった話を信用する方はもはやいらっしゃらないとは思いますが、御用と御急ぎでない方はどうぞお付き合いください。

 1938年はアメリカの航空戦略が攻勢的色彩を一気に強めた大きな転換点でした。この時に登場した「レインボー5」と呼ばれるアメリカの戦争計画はそれまでのやや観念的な想定と異なり、アメリカが西半球防衛を確立した上でイギリス、フランスと協調してドイツ、イタリアとの戦争を戦うことを明確にしたもので、目的のはっきりした具体的な戦争計画です。この計画はフランスの崩壊と日本の枢軸側への参入を機に改正拡張され、さらに1941年1月のアメリカ・イギリス非公式会談による合意事項としてドイツを最大の脅威と認識し、太平洋方面の守勢、ドイツの経済封鎖、イタリアの早期崩壊、空軍力での攻勢、長距離爆撃部隊の重要性確認などを加え、ここでアメリカにとっての対ドイツ戦の概要がほぼ固まります。

 そして1941年8月、「Munitions Requirements of the Army Air Force」と題された航空戦構想が生まれます。これはアメリカ陸軍航空隊が独立空軍的性格に大きく踏み出す組織改変を経て従来の「Air Corps」から「Army Air Force」に生まれ変わって初めて作成された航空戦略で「Air War Plans Division-1」、略称AWPD-1と呼ばれます。その内容は「レインボー5」と米英交渉による合意を反映して西半球防衛の概念にドイツに対する航空攻勢、極東地域の防衛を加えるもので、基本的には陸軍航空隊の航空戦略を継承するものでしたが、対ドイツ戦の帰趨は航空戦によって決定するという戦略爆撃万能論であることが特徴で、対ドイツ航空戦が完全に成功すれば地上兵力による大陸反攻は不要となる、という考え方をその根底に持っています。

 このAWPD-1が示した対ドイツ航空戦は既に対ソ戦に突入して経済社会面での緊張状態にあるドイツを崩壊に導く三つの軸を持っています。

1.電力関連施設、輸送システム、石油精製、石油資源の破壊および国民士気の侵蝕を狙った人口密集地への爆撃

2.ドイツ空軍の無力化を目的とする航空基地攻撃、航空機工業、軽合金工業の破壊

3.友軍の航空基地防衛、潜水艦基地攻撃、艦船攻撃、要港攻撃

 そして、これらの爆撃作戦には昼間精密爆撃が採用され、都市爆撃については明らかに士気低下の兆候がある場合か、友軍が極めて不利な状態にあり他の手段が無い場合にのみ実施するとしています。このような消極的姿勢は他の産業施設、軍事施設への攻撃に較べて都市爆撃が国民士気の崩壊を狙うという効果を数値化しにくい作戦であることが最大の理由です。爆撃作戦で人道的な問題が本気で考慮されたことはありませんし、アメリカの諸都市が報復爆撃されることもまず考えられませんから無差別爆撃に伴うリスクは少なくともアメリカにとっては存在しません。

 もう一つの顕著な傾向は相変わらずの戦闘機に対する爆撃機優位論です。高高度編隊飛行と高速、重武装、重装甲によって爆撃機は敵戦闘機の攻撃を排除できるとの確信は1941年の夏になっても揺らぎません。ただ、長距離爆撃機と同等の行動半径を持ち、速度と上昇力でやや優る大型護衛戦闘機の要求は行われています。しかし、戦闘機部隊については、イギリス本土で利用できる航空基地の数が限られているため、爆撃機部隊の展開を妨げない範囲で基地防衛が可能な最小限の配備とすることが求められます。

 またAWPD-1では対ドイツ戦に加えて西半球防衛のためにアラスカ、ハワイ、南アメリカへの航空兵力配備とアジアでの戦略的守勢を維持するための長距離爆撃機派遣が考慮されている点も見逃せません。そして日本に圧力をかけることを目的にフィリピンとアラスカにB-29、B-32を配備し、そこから日本本土を爆撃してシベリアに着陸、給油と再武装の後に復路で日本本土を爆撃する往復爆撃が提唱されています。この提案は高く評価され、ただちにフィリピンへのB-17、B-24の配備が決定します。B-17、B-24は日本本土爆撃の能力はありませんが、日本の南進に対する抑止力として期待されたからです。

 AWPD-1は確かに壮大な戦略構想ですが、アメリカ陸軍航空隊はほんの4、5年前まで1800機の第一線機を揃えるのに四苦八苦していた空軍です。航空機工業も戦時大量生産の経験がありませんから軍用機の開発と量産の見通しには自信が持てない状況で、AWPD-1が提唱する各機種の航空部隊203グループと地上軍に随伴する108個の直協飛行隊、合計59727機の配備完了時期は1943年度または1944年度と曖昧です。

 そしてさらに大きな問題としてイギリス本土の航空基地の数と収容能力に限界があり、必要な数の爆撃機を配備できないことが判明します。B-29の行動半径を考慮して想定された中東地域の基地を利用するとしても爆撃機54グループの配備が上限と判断されます。ドイツ本土爆撃はあらかじめ定められた154の爆撃目標に対して98グループの爆撃部隊が6ヶ月間の連続爆撃を実施するというものでしたから単純にあと44グループ分(計算上は3740機)の兵力が配備できないことになります。

 フィリピン、アラスカへのB-29配備による往復爆撃や中東基地からのドイツ本土爆撃といった構想に現れているようにARPD-1はB-29の性能を標準として成立しています。B-29は1941年の夏から日本本土空襲に投入されることが決定していたということですし、ドイツ爆撃にも当然、B-29が主力となる予定だったのです。AWPD-1もB-29が最も合理的、経済的な機種であり、B-29への機種統一が望ましいとしています。けれども、ドイツを戦略爆撃で崩壊させるために必要とされる兵力と利用できる基地数との問題から残る44グループ分の爆撃機をB-29から、「行動半径4000マイルの長距離爆撃機」に置き換える決定がなされます。

 これは以前「GHQ Air Force」が要求した行動半径5000マイルの報復爆撃用大陸間爆撃機の再現です。「行動半径4000マイル」爆撃機であればドイツ本土爆撃を遠く離れたニューファンドランド、グリーンランド、アフリカ、印度、そして北アメリカから実施できることから採用された開発計画ですが、実機の試作設計もAWPD-1の研究とほぼ同時進行で行われています。1941年4月11日に航続距離10000マイルの爆撃機の要求仕様が交付され各社が研究を開始、1941年8月19日にアーノルドがAWPD-1と平行してこの計画の促進を命じて年末に試作機の契約が結ばれます。これがXB-36です。

 XB-36は1930年代初頭から続くアメリカ長距離爆撃機構想の中で本命に位置する大陸間爆撃機が第二次世界大戦によって実現したものと言えます。具体的には第二次世界大戦前から西半球防衛の概念に沿って、アメリカ本土からドイツへの報復爆撃を実施することを期待された大陸間爆撃機構想ですから、一般に言われるような「イギリスの敗北の可能性を考慮して開発された」爆撃機ではありません。しかし、XB-36を盛り込んだことでAWPD-1は各種航空機238グループと直協飛行隊108個の合計63467機に膨れ上がり、その実現は「1945年度以前には無理」と考えられるようになります。

 AWPD-1を眺めると1941年当時のアメリカが何年頃に参戦するつもりであったかが何となく見えてきます。またフィリピンへの爆撃機配備状況を見れば、真珠湾奇襲がアメリカの謀略などではないことも明白です。虎の子の長距離爆撃機を輸送中にハワイで焼かれることは旧式戦艦を失うよりも遥かに深刻な事態です。

 戦後、色々な場所でアメリカが実施した戦略爆撃の功罪が論じられて来ましたが、現実に行われた旧式なB-17と、B-17と同級の大量生産用爆撃機B-24を使用したドイツ本土爆撃作戦と、AWPD-1が既に1941年8月の段階で示しているB-29とB-36による爆撃作戦との間に存在する大きなギャップを踏まえなければ戦略爆撃作戦の正当な評価は難しいでしょう。単純に「戦略爆撃は有効か無効か?」を論じる前に「戦略爆撃は(予定した規模とペースで)行われたのか?」を考えてみなければならないはずです。そうでなければあれほどの大損害を蒙り、なおかつドイツ軍とドイツの産業を崩壊させることができなかったにもかかわらず、戦争終結後もアメリカが戦略爆撃を相変わらず重視し続けた理由が十分に見えてこないかもしれません。

8月 27, 2008 · BUN · 7 Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

7 Responses

  1. matsuzay - 9月 1, 2008

    「国分町」ってひょっとしてケヤキで有名な某市の方ですか?
    それはともかくとして、戦後の米国の弾道ミサイル開発はドイツのV1/V2から着想を得たというよりも、大陸間爆撃機の発想が原点になったというのは考えすぎでしょうか。敵襲を受ける虞のない米本土や後方の基地から発進した機体によって敵の防空網を突破し敵国の中枢を攻撃するという狙いが一致しているように思えるのですが。

    あと、文中で「報復爆撃用大陸間爆撃機」という言葉が出てきますが、具体的には米国に対するどんな攻撃への報復を想定していたのでしょうか。

  2. BUN - 9月 2, 2008

    matsuzeyさん

    >ケヤキ
     お近くでしたらブンチョーで一献傾けましょう。

     核戦略の原点がドーウェにあるようにICBMも長距離爆撃機も同じ思想の産物です。技術的には隔絶していても機能は同じですよね。

     西半球防衛という観点からの報復ですから、建て前としては南米などへの進出(基地確保)や潜水艦戦への報復ですが、言葉には出さない本意としては「フィリピン侵攻があれば日本を爆撃する。英仏への侵攻があれば独本土を爆撃する。何もなくても世界中を爆撃できる。」といった姿勢があります。GHQAFは専門職ですからある兵器がどう使えるかを素直に考えた訳ですね。

  3. 杜の人 - 3月 1, 2010

    僭越ながら質問をさせてください。
    AWPD-1で必要された63467機の航空機が完成するのが
    45年以降…ということは、
    41年夏のアメリカは45年以降の参戦を予定していたと
    いうことですか?ちょっと悠長に過ぎるようにも思えるのですが。
    たしか41年には43年中の大陸反攻が既に検討されていましたよね

  4. 杜の人 - 3月 1, 2010

    AWPD-1でアメリカが戦争に備えて必要とした63467機の航空機が
    完成するのが1945年以降ということは、
    1941年夏のアメリカは1945年以降の参戦を予定していたと
    いうことですか?それとももっと早期に参戦して、史実のように
    試運転のような爆撃作戦を行いつつ戦力を充実させていく方針
    だったのでしょうか

  5. 杜の人 - 3月 1, 2010

    申し訳ありません。
    携帯での投稿ができなかったのでWebから書いたつもりが、
    なぜか二重投稿になってしまいました。

  6. BUN - 3月 1, 2010

    杜の人さん

    AWPD-1で示された計画はその後、何度かの改正が加えられてAWPD-42にまとめ上げられます。アメリカの参戦計画はまさにこの流れの中にあります。AWPD-1が全てではなく、AWPD-1に対しての問題意識のありようがその後のAWPD-4やAWPD-42に反映されているわけです。

  7. 杜の人 - 3月 4, 2010

    参戦前からヨーロッパ戦の情報を元に計画の改訂が繰り返し行われて
    いたということですね。ありがとうございました。

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