空の要塞否定論 1

 「空の要塞」B-17はアメリカ陸軍航空隊初の高性能長距離爆撃機として第二次世界大戦を通じて活躍した名爆撃機です。けれどもB-17は順風満帆とは程遠い逆風の中で育った、アメリカ爆撃機の中で一番の苦労人でもあります。同じ陸軍内に推進派もあれば反対派もあるというB-17の導入経緯は陸軍に属する航空部隊が長距離爆撃機を持つということがどういうことなのかを知る良い手掛りになるはずです。

 1934年度の競争試作で残されたXB-17とXB-18にはそれぞれ推進派と反対派があります。高性能であるけれども高価な四発爆撃機を強く押していたのは陸軍航空隊の主流ともいえる独立空軍志向の将校達で、旅客機ベースの双発爆撃機というあまり夢の無い機体である代りに安価なXB-18を支持したのは主に航空隊の外にいた陸軍省内の将官達でした。

 長距離爆撃機を航空隊が装備するということは当時のアメリカが想定していた国防方針に沿って考える限り、陸軍の主力である地上軍がいる米本土を離れて洋上で航空隊が独自に戦うということを意味します。一方、中型爆撃機を装備すれば航空隊が地上軍の支援という陸軍航空隊の最も基本的な任務に専念することを意味します。沿岸防衛においても遠く洋上で敵艦隊を邀撃するのではなく、上陸地点近辺での艦船攻撃に限られるからです。機体が高価であるか安価であるかも大きな問題でしたが、陸軍航空隊の爆撃隊にとってドクトリン上の問題が両者のどちらを主力とするかで生じてしまうのです。

 四発爆撃機推進派は当時の陸軍が沿岸防衛を担っていたことを利用して、長距離爆撃が可能な四発爆撃機は洋上遥かに敵を撃滅できる最も合理的な兵器であると主張します。開発段階から試作機による実験段階まで、四発爆撃機推進派は一貫して洋上攻撃能力の優越を主張し、演習でもその成果を際立たせるべく努力を続けます。XB-15のような長距離爆撃機の試作に対してアメリカの持つ海外拠点の防衛に関心を抱くマッカーサー等からの支持が得られたのはこうしたアピールの結果です。

 1934年の試作開始から順調に完成したXB-17の1号機は優秀な成績を収めて1935年度に65機の発注が内定しますが、試験中の事故で機体が失われたために発注が再検討され、1935年度には65機のB-17ではなく133機のB-18が発注されてしまいます。そして1936年度にYB-17として実用試験目的で13機の発注が行われ、1937年度、1938年度に発注される予定だった2個グループ分のB-17発注は撤回され、B-18に置き換えられます。かろうじて発注された13機のYB-17は1937年8月までに全機納入され、1937年度の演習に参加することになります。

 陸軍航空隊がB-17の発注復活を目指して臨んだ1937年度陸海軍合同演習でYB-17はカリフォルニア沖385マイルもの距離での艦船攻撃に成功して沿岸防衛用の爆撃機としての適性を示したことで、「陸上の機動戦に対応するにはB-18が適当」とする陸軍省から1938年度に26機、1939年度に13機のB-17Bの発注が復活します。何とも危うい展開ですがB-17に対する対立はこれで収まった訳ではなく、まだまだ続きます。

 B-17がB-18に比べて遥かに高価だったのはまったくの事実でしたから、B-17否定論の第一の根拠は高額の調達費への疑問となります。これに対して四発爆撃機推進派は「搭載爆弾のトン数あたりの価格はB-18より安い」「偵察任務における偵察可能面積あたりの価格もB-18より安価」と反論します。

 しかしここで面白い点は、だからといってB-17を大量配備せよという主張が行われた訳ではないことです。彼らの主張とは四発爆撃機はB-17の実績が示す通り極めて有効な兵器であるから「本格的四発長距離爆撃機の機体の試作と大馬力発動機の研究開発を継続せよ」というもので、1936年度にプロジェクトDとして試作開始されたXB-19クラスの「本物の長距離重爆の研究開発を中止するな」と言っているのです。四発爆撃機推進派にとってB-17という爆撃機が妥協的、中間的な爆撃機として認識されていたことを示す主張です。陸軍航空隊が本当に欲していたのはXB-19クラスの超重爆なのです。

 陸軍省内でのB-17否定論はまだまだ続きます。

8月 19, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

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