歩兵支援を任務に加える独軍戦車部隊

 1942年の東部戦線を通じて一番変わったものを挙げるならば、それは戦車と歩兵の関係になるはずです。ドイツ陸軍は戦車を決勝兵器としてきわめて特別視しています。そのために一般歩兵部隊の支援に戦車を投入することは戦争前半ではまず例外的で、戦車部隊とは戦車をできる限り集中させることでその機動力と衝撃力を最大限に活用し、突破作戦を成功に導く存在でした。

 そのための理論構築と教育が徹底されていたのでドイツ戦車部隊はまさにエリート部隊としての意識を持っていましたから歩兵部隊への分派、従属は彼らにとってまったく不本意かつ無駄な任務と考えられています。中でも歩兵部隊の指揮官に対する不信は大きく、「歩兵指揮官=戦車戦術を理解しない指揮官」という認識が一般的です。

 しかし1941年の冬季戦では消耗しきった戦車部隊の残滓のような小部隊がほころびかけた前線の火消し役として活躍しましたし、恵まれた環境にある歩兵部隊では突撃砲という戦車ではない戦車の支援も受けることができ、防御戦に装甲戦闘車輛を用いることの有利さが認識され始めます。特に東部戦線の防御戦は異様に手強いソ連軍戦車の突破をまともに受けて立たねばなりませんから「戦車」があるのと無いのとでは戦闘の経過も結果もそして歩兵部隊の損害も大きく異なったからです。

 1942年の戦いについての前線部隊の報告には防御陣地に配置された歩兵師団に少なくとも1個大隊、最低限1個中隊であっても戦車を配備して欲しいとの要求が多くあります。前線で戦い続けた歩兵指揮官達にとって、敵の突破が発生したときの最も有効な対処策として「出来る限り早期の逆襲」が重視されていました。それは敵がドイツ軍のか細い連続式防御線を突破した場合、逆襲の効果は兵力の大小よりも逆襲をどれだけ早期に実施できるかが勝敗の鍵を握っていたからです。突破対策は時間との戦いだったのです。

 突破が成功した後、ソ連軍はただちに突破口の拡大を目指して活動し始めますし、ドイツ軍の逆襲に備えて陣地構築を開始します。突破が発生した前線から遠く離れて配置されている戦車師団が反撃に駆けつけたのではソ連軍の突破口強化と拡大に間に合わず、逆襲は大きな損害を伴うことになります。ドイツ軍にとってそれは最も貴重な歩兵戦力を消耗するという苦しい戦いです。それを避けるためにはたとえ少数ではあっても即時逆襲に投入できる戦車兵力が必要と考えられ、歩兵師団への補強部隊として戦車の派遣が要求されています。

 ソ連軍の突破作戦準備を察知することは容易と考えられていました。そのために理想的な措置として緊急度の高まった地区に増派する反撃用師団を用意することも考えられていましたが、常に兵力不足に悩むドイツ軍にとっては実現の望みが無い対応でした。そのために戦車部隊をより早く突破口へと投入できるシステムを前線の歩兵指揮官達は望んだのです。

 このように歩兵師団からの要求は切実なものがありましたが、戦車師団の指揮官達から見た場合、歩兵支援要求はどうにも受け入れられないものでした。なぜならば戦車は集中投入してこそ戦力を発揮できるものという原則が叩き込まれていたこと以上に、歩兵の支援要求を一旦受け入れた場合、歩兵指揮官の下で戦車が必要以上に酷使され、消耗してしまうという大きな心配があり、そのような形で戦闘が続けられた場合に機動戦用の戦略予備であるはずの戦車師団の独立性が失われてしまうとの危惧がありました。

「歩兵に戦車を任せると戦車を知らない指揮官が戦車を浪費してしまう。」
「歩兵の前線に置かれた戦車兵は歩兵達より危険で死傷率が高い。」
「戦車の派遣は歩兵部隊に依存心を抱かせ攻撃精神を鈍らせる。」
「戦車の指揮を委ねるならば明確な期限が必要。」
「歩兵部隊に派遣するよりも、戦車部隊に歩兵、砲兵、突撃砲を派遣して戦闘力を高めるほうが合理的である。」

 戦車部隊の指揮官達の認識はこのように歩兵部隊に対して冷淡なものが多く、同じ装甲戦闘車輛である突撃砲部隊とは大きな違いがあります。歩兵が突撃砲に対して抱く感情と戦車部隊に対してのそれとは大きく異なったと言われていますが、さもありなん、と思わせるものがあります。

 確かにドイツ軍にとって常時不足している歩兵戦力の損害減少は最重要課題でしたが、だからといって戦車が余っていた訳ではありません。戦車の不足もまた深刻な問題でしたから戦車師団が自ら戦車の派遣に積極的になるはずがありません。そのために歩兵対戦車の論争はなかなか決着がつきません。けれども1943年を迎えると多くの戦訓からやはり戦車部隊を危機の迫る地区に分派することが真剣に検討され、そのマニュアル化が進められます。そして1943年2月に戦車学校が編纂した歩兵支援のための教本が配布され、戦車部隊の指揮官達を驚かせることになります。

1943年2月「防御戦における戦車と歩兵間の協同に関する教本」
・戦車は反撃戦に用いるべきものである。固定した防御戦闘に用いてはならない。
・戦車は防衛すべき正面すべてにおける敵の突破に対応できるよう、最前線から十分に距離をおいて配置されなければない。
・戦車は常に集団で用いるべきものである。個々の戦車を孤立して投入することを禁ずる。
・戦車を反撃戦において歩兵支援のために投入する場合の最低単位は1個大隊(最低50輌)である。

 この歩兵支援教本が配布されると同時に戦車師団からの戦車部隊抽出が頻繁に実施されるようになります。東部戦線で戦車部隊を抽出されて戦車戦力がゼロになった戦車師団が見られるようになるのは、このようなドクトリンの転換が行われたからです。
 本来は攻撃兵器であるはずの突撃砲が防御戦闘で対戦車兵器として活躍するのも、弱体な歩兵師団に本隊を遠く離れた戦車が随伴していたりする理由もここにあります。

 アメリカの歩兵師団が編制の中に増強戦車大隊を常駐させていたことで、アメリカ軍は戦車を歩兵支援兵器と考える旧態依然の思考に囚われていたとする評価がありますが、ドイツ軍は1943年になってからようやくその戦術を限定的に採り入れます。1943年2月に訪れた変化はドイツ軍における歩戦協同戦術が各国に追いつき始めたことを示しているとも言えるようです。

8月 11, 2008 · BUN · 2 Comments
Posted in: ドイツ軍の防御戦ドクトリン, 陸戦

2 Responses

  1. 早房一平 - 8月 11, 2008

    ためになります、独ソ戦ってあれほど広大な土地でどのように戦争をしていたのかイメージが湧かなかったのですが、一連のお話によって見えてきたような気がします。

  2. BUN - 8月 12, 2008

    「防御」テーマだと確かに情報が限られますね。
    これと「空」との結びつきがピンと来る戦史はなかなかありません。たとえばスターリングラード空輸を行わずに爆撃隊が救援作戦支援に集中投入されていたら・・などあまり語られないifがあるのも東部戦線の特徴かもしれません。

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