塹壕戦ドクトリンと電撃戦ドクトリンの同居?
電撃戦を戦ったドイツ戦車が性能面ではかなり貧弱だったことはよく知られています。一号戦車や二号戦車が大半を占める貧弱な装備で大戦果を勝ち取ったことはドイツ陸軍が戦車の性能ではなくドクトリン面で攻防ともに超越的な存在だったような印象を与える上、さらに組織、教育、精神、果ては民族性まで「電撃戦」コンシャスな軍隊だったように受け取られているのが実状でしょう。でも、ひょっとしたら「電撃戦」ドクトリンは突如生まれた革命的存在ではなく、第一次世界大戦の塹壕戦で生まれた防御ドクトリンと一対をなす表裏一体のものなのかもしれません。
第一次世界大戦後のドイツ陸軍はベルサイユ条約下で総兵力と装備面でほとんど非現実的な軍備制限を受けることになります。けれどもこの軍備制限は新生ドイツ陸軍から旧プロシア陸軍の伝統を破壊する働きもありました。その流れの中で現れたのがゼークト将軍を中心とした改革です。
ゼークト将軍が退く1926年までの間、ドイツ陸軍の戦術は機動戦を主体とする攻撃ドクトリンに染まります。これは新思想の勃興とも言えますが、軍備制限によって弱体化してしまった新生ドイツ陸軍は、はるかに強大な兵力を持ち装備面でも優れる軍隊を持つ国々に囲まれる立場に追い込まれてしまったので、前大戦のような防御戦などとても実施できないという現実に対応したものでもあります。
機動戦が重視される中で「弾性防御」には機動戦に対応するバリエーションが生まれます。移動しながら戦う場合、時間を掛けて塹壕を掘りめぐらせて「弾性防御」用の陣地を構築できません。移動戦での築城作業は個人用のタコツボと簡易な火点の構築程度が限界と考えられています。バトルゾーンでさえ簡易な火点とタコツボで構成せざるを得ないのですから後方陣地では特別な築城は行われません。そして前哨線もバトルゾーンと同じようにタコツボ程度の簡易なものになります。塹壕戦とは異なり、敵砲兵の介入をやや軽く見積もることができるとはいえ、防御陣地が弱体化したことには変わりありません。
こうした防御陣地の弱体化への対応として導入されたのが前哨線よりもさらに前進した位置へ兵力を配置することです。
・ 敵部隊の接近を早期に察知して先手を取る
・ 防御縦深を拡大する
・ 主陣地の位置を敵に察知され難くする
このような機能が前進線に求められ、ここに配置された兵力は敵との交戦が本格化する前にバトルゾーン後方まで後退し、反撃部隊として再びバトルゾーンへと投入されます。
機動戦対応の「弾性防御」はこうした四段構成が特徴です。そしてこのバリエーションも前大戦の戦訓を反映させたもので、西部戦線以外の塹壕戦に陥らなかった戦線での経験が機動戦用の「弾性防御」を生み出しているのです。この機動戦用「弾性防御」は従来の塹壕戦用「弾性防御」とともに教範に併記され、1921年から1926年にかけてのゼークト時代を通じて重視され続けます。その後は塹壕戦用「弾性防御」との折衷案のように変形しますが、それでも基本は変わりません。
けれども第一次大戦後のどこの国の軍隊であっても「機動戦の主役は戦車だ」と考えられています。これに対抗できなければ防御ドクトリンは成り立ちません。そしてドイツ陸軍も対戦車防御についてひとつの明確な指針を持っています。それは徹底した「歩戦分離」です。
戦車は随伴する歩兵を引き離してしまえば脆弱な存在であるとの第一次大戦中の戦訓が確信をもって受け継がれています。そのために防御にあたる部隊は小火器の火力を敵歩兵部隊に集中してその殲滅をはかり、敵戦車はそのまま突破するに任せて後方で重火器や歩兵用の対戦車兵器で処理することが理想とされますが、ドイツ陸軍では敵戦車への対抗手段に友軍戦車を除外していることが大きな特徴となります。
対戦車戦闘は専門の対戦車部隊に任せるという考え方も戦間期に一般的でしたが「戦車に対するには戦車」という発想もかなり古くからあります。例を挙げればイギリス軍の中戦車には「1000mで敵戦車を撃破できる」という要件が最初から設けられています。北アフリカ戦線でイギリス軍戦車の2ポンド砲が徹甲弾主体で非装甲目標の攻撃に難渋したのはこうした理由です。ところがドイツ陸軍では戦車は徹底して攻撃兵器として位置づけられ、対戦車防御に戦車部隊を介入させるという方針は採用されません。
戦車部隊は敵の戦車攻撃への対抗手段としては用いられず、後方に予備兵力として保存されて戦闘が本格的な反撃のフェイズに移行してから敵の側面または後方に対して集中投入されるものと考えられ、突破した敵戦車の撃破は戦車の任務ではないとされています。「戦車に対するに戦車という発想は長く信じられていたが、現実的でなく、効果もない」という主張は第二次世界大戦初期までドイツ陸軍の主流を占めます。
このようにドイツ陸軍では戦車の任務と用法が非常に明確で、むしろ観念的とさえ言えるほどに特別視されています。これは本物の戦車を一輌も装備できなかったベルサイユ条約下の10数年間に新時代の機動戦術の中心となる「戦車」を実物を手にしないまま理論の中で育て続けた結果なのかもしれません。
第一次対戦に根を持つ「弾性防御」ドクトリンと「電撃戦」ドクトリンが同じ陸軍の中で同居しているのは、長く戦車を持たなかったゆえに戦車をありふれた普通の兵器として防御ドクトリンに組み込めなかったドイツの特殊事情の反映だと読むこともできますね。
7月 25, 2008
· BUN · 2 Comments
Posted in: ドイツ軍の防御戦ドクトリン, 陸戦
2 Responses
でぐちゃれふ - 7月 25, 2008
何だか日本軍について語られているかのような錯覚を覚えました。
BUN - 7月 26, 2008
そうですね。
いったい日本陸軍とどこが違うのか、と考えちゃうのが常識人かもしれませんね。
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