変わらない爆撃思想

 1940年代に多数の四発重爆を揃えて戦略爆撃を実施していたのはアメリカとイギリスの二国だけです。アメリカの場合はまた後で触れるとしても、イギリス空軍はなぜ四発重爆を大量に配備しようと考えたのでしょう。一般的にはイギリス空軍は「他国に先駆けて戦略爆撃思想に目覚めた」「四発重爆の重要性に他国より先に気づき思想の転換が早かった」といった認識があるように思います。そして場合によっては「それにひきかえ当時の日本は爆弾搭載量の小さい双発爆撃機が主体で・・・」と続いたりします。

 イギリス空軍が1920年代から1933年までドイツではなくフランスを仮想的として軍備を整えていたことは前にも書きましたが、ドーバー海峡を挟んで仮想的と対峙するイギリス空軍は他国の空軍よりも地上軍支援問題で悩むことが少なく、大規模かつ長期的な陸戦を想定せず、敵と海峡を挟んで距離を置いているために航空撃滅戦についてもその完全な遂行は望めないという限定的な枠組みの中でかなり純粋に戦略爆撃思想を発展させています。もし対仏戦争が起これば戦略爆撃によって敵国の継戦能力を奪うのが空軍の仕事でした。

 そのためにイギリス空軍はヨーロッパで最もドーウェ的、ミッチェル的な理想的空軍として育つことになります。理想といっても空軍として立派で使いやすく有効だという意味ではなく理想を追いかけ続けた空軍といった意味で理想的空軍なのですが、理論通りに仮想的フランスを教材として敵国の経済、交通、産業の分析を行い、攻撃すべき目標の選定とその優先順位を検討し、そのための機材を整えます。ビジネスの世界で受ける言葉として「ターゲッティング」をしていた訳です。イギリス空軍は戦略爆撃に関しては空軍独立以来、極めて優等生で最年長という存在だったことを覚えておいてください。途中で目覚めたのではなく空軍が始まって以来、変ることなく戦略爆撃思想なのです。

 この時代のイギリス空軍に特徴的なのは夜間爆撃についての考え方です。イギリス空軍は夜間爆撃を重視していると聞けば腹を真っ黒に塗ったランカスターを思い出しますから確かにそんな気がしますけれども、第二次世界大戦で夜間爆撃を熱心に継続したイギリス空軍といえども戦略爆撃の主体はあくまでも昼間爆撃で、夜間爆撃は昼間精密爆撃の損害復旧を妨げる効果と敵国民に対する心理的圧迫を与える存在として位置付けられきました。このように昼間精密爆撃と夜間爆撃はセットになっていましたから、むしろアメリカが昼間爆撃の効果を補完する存在としての夜間爆撃を重視しなかったのが不思議なくらいです。数値に表しにくい心理的効果をも重視する夜間爆撃よりも理論化しやすく定量化が容易(・・なように見えるけれども現実には行き当たりばったりの結果となった)な昼間精密爆撃を、アメリカでの戦略爆撃理論の発展を担った各方面の学者達が好んだことが大きな要因ではないかとも言われています。

 フランスを仮想的とした時代のイギリス空軍は昼間精密爆撃と夜間爆撃を継続することで敵国の継戦能力を奪うことを目的に戦力を整えていましたから、その機材もそれに応じたものを開発しています。すなわちパリ周辺にあるフランスの工業中枢を破壊してイギリス本土に帰還できるだけの行動半径を持つことです。この枠組みで爆撃機の開発が行われていましたから、機材の中心は単発、双発の爆撃機になっています。主要目標への距離が太平洋戦争の日本軍などに比べて遥かに近いので爆撃機は双発で十分だったからです。距離が近ければ反復攻撃も容易ですし、何よりも爆撃機が小さいもので済めば予算も節約できるからです。

 ところが1933年にナチスが台頭し、必然的に仮想敵国がフランスからドイツへとシフトした際にイギリス空軍はある点で困惑します。それは「ドイツ本土が遠い」ことです。ドイツ本土の戦略目標をイギリス本土から攻撃する爆撃機にはより大きな行動半径が必要ですし、そのような長距離攻撃をする以上、一度にたくさんの爆弾を投下できなければ不経済ですから爆弾搭載量も増大しなければなりません。さらに大変なことにドイツ本土の戦略目標への爆撃行はドイツ戦闘機の邀撃を排除しながらの強襲作戦になることが明らかでした。

 対ドイツ戦を意識した爆撃機の計画要求はドイツ本土の戦略目標を行動半径におさめることが第一、そして敵戦闘機への対策として最高速度の増大が第二、爆弾搭載量の増大はそれらに次ぐかたちで検討されていましたが、ドイツ本土爆撃には従来の軽爆撃機の性能ではとても対応できないことは誰にもわかっていましたから、爆撃機の開発計画はより大型の機体へと移行します。スターリングやマンチェスターなどはこうした新しい仮想敵国に対応した計画要求で生まれた爆撃機です。

  1936年度計画で要求された四発重爆がスターリング、双発の中型爆撃がマンチェスターですが、この時点でもイギリスはまだ四発重爆中心主義とはいえません。計画要求は飛躍的な性能向上を求め始めますが、爆撃機を全て四発重爆に置き換える決断は下されていません。そこには当然、予算問題が存在します。日本海軍が四発の大型陸上攻撃機/四発大型飛行艇と双発の中型陸上攻撃機/中型飛行艇の装備割合を1対3として予算上の問題を解決しようとしたように、イギリス空軍も双発のマンチェスタークラスの中型爆撃機を爆撃部隊の主力とする計画でした。

 予算が無いので双発爆撃機を主力とせざるを得ない、けれども行動半径を増大させ、なおかつ敵戦闘機に対抗できる高速を双発爆撃機で実現するためには残念ながら爆弾搭載量を減らさなければならない。そしてさらに悪いことにはイギリス本土といえども軍用飛行場の滑走路長を考慮すれば離陸滑走距離も制限せざるを得ない。けれども離陸滑走距離を500ヤード以内に制限して予定の航続力を持たせ、しかもある程度の高速を実現するとなると、爆弾搭載量は500キロ位になってしまいます。まるで日本陸海軍の双発爆撃機のようですが、当時のイギリス空軍はこれを受け入れています。

どこの国の爆撃機も同じ条件で設計すれば大して変らない性能となる、という当たり前の話ではありますが、現実に対ドイツ本土の爆撃を考えると、もう少し何とかしたいものです。そこで登場したのがカタパルト発進計画で・・・と、長くなりましたので次回へと続きます。

 大切なのはイギリス空軍の爆撃ドクトリンは1920年代から第二次世界大戦まで基本的に変化が無いということです。見た目は変わっていますが思想は変わっていないということで、別に目覚めた訳でも悔い改めた訳でも無いのがイギリス空軍らしいところかもしれません。

6月 1, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: イギリス空軍

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