1930年代ソ連の航空振興政策

 世界史に突如現れた社会主義国、ソ連の政策は何につけても規模が大きいのが特徴です。航空軍備もさることながら、それをとりまく国民一般への航空教育、航空振興策も奇妙な程に大規模で1927年には国防と航空、化学工業発展ための翼賛組織として「Osoaviakhm」が誕生し、1931年に共産主義青年同盟は「同盟員出身パイロット15万人を軍の学校と軍以外の飛行クラブから送り出す」決議を行っています。

 こうした動きは単に航空軍備充実のための動員という性格のほかに、それなりに熱狂的な国民運動としての側面があるようで、裾野の広げ方もスケールが大きく、少年達に向けての飛行機模型教育(スケールモデルではなく実際に飛ぶ模型飛行機)は大いに流行しホントかどうか知りませんが1938年には中央模型飛行機学校ができたと言われています。

 しかも同年中、航空関係の学校を通じてパラシュート降下を体験したソ連国民は合計300万人と報告されており、先に触れた「Osoaviakhm」のメンバーは260万人、飛行クラブは総数180、グライダー学校は46を数えます。このグライダー振興策もひとつの特徴であると同時にかなり人気があったようで、この時期のソ連はグライダーに関する世界記録をかなり獲得しています。国策であると同時に国民に人気のエリートスポーツとして受け容れられていたらしく、これはこれで興味もあるのですが、当時のソ連国民生活と航空の距離感は今ひとつわかりません。規模は違えどもどこか日本にも通じるものがありますので、ひょっとしたらソ連式の航空振興政策モデルがドイツ経由で、あるいは直接、戦時中の日本に採り入れられたのかもしれません。

 もともとこれだけ下地を耕されていたソ連では1941年2月からの空軍の組織再編、装備改変さえ順調に行けば1942年末には欧州最強の空軍として生まれ変わったはずなのですが、そこで6月22日が訪れてしまい、準備不足のまま独空軍の航空撃滅戦に巻き込まれて機材の大半と多くの第一線パイロットを失います。しかし元々が更新予定の旧式機材の損失だったことと、独空軍にとっては100点満点の航空撃滅戦ではあったものの、与えた人的損失はソ連空軍の持つ長い槍の穂先を折った程度に留まってしまい、結局のところ、1941年2月のソ連空軍再編プログラム通りに1942年末にはソ連空軍の活動が盛り返してしまいます。未経験の長期航空戦で力尽きてしまったのは国民の動員規模が小さく遅かったドイツ空軍だったということです。

4月 30, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ソ連空軍

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