敵はフランス

 イギリスの軍用機体系は1920年代にほぼ完成していたという話を紹介しましたが、軍備体系があれば同時にその国の国防方針があります。イギリス空軍はどんな敵とどんな戦争を戦うために軍用機体系を作り上げていたのでしょう。

 1918年に第一次世界大戦が終わり、世界大戦後のヨーロッパはヴェルサイユ条約の下でしばらくの間、平穏な時代を迎えます。大規模な戦争を戦うためにその規模を急速に拡大したイギリスの航空兵力も戦争の終結とともに縮小に向かい、組織の再編が行われています。けれども各国空軍にとって二つの世界大戦の間に生まれた平和は単に軍縮の時代であるだけではなく、世界大戦の経験を通じて生まれた新しい航空戦理論の吸収と応用の時代でもありました。

 ロンドン防空のために空中戦ゾーンとガン・ゾーンを設定してイギリス空軍が防ごうとした敵空軍とはヴェルサイユ条約下で航空軍備を禁じられて消滅したドイツ空軍であるはずがありません。当時のヨーロッパでイギリス本土を空襲できる潜在的な実力を持っていたのは世界大戦で共に戦ったフランスの航空兵力だけです。イギリス空軍以上の兵力を維持するフランスの航空部隊以外にイギリス本土を脅かす者は無いのですから、イギリス空軍の仮想的は必然的にフランスとなります。

 空中戦ゾーンがイギリス本土の南方に向けて設定されているのはそのためですし、イギリス空軍の爆撃機はフランスに対して昼間精密爆撃を行い、その損害復旧を妨げる夜間爆撃を実施するために構想されています。当時の戦闘機が爆撃機を護衛してロンドン上空に到達することはまず考えられませんし、その逆にイギリスの戦闘機がドーバー海峡を越えてフランス上空で制空権を争うということも不可能でしたからイギリスの航空戦理論は爆撃機中心となります。

 大陸軍国のフランスを相手に大陸で戦うことはイギリスにとってあまり好ましいことではなく、イギリス空軍にとっても戦闘機を進出させて制空権を争うような航空戦を戦ってフランス空軍を直接圧倒することは現実的ではないと考えられています。戦間期のイギリス空軍にとって制空権とは航空戦の展開上で重要な問題ではあっても、必ずしも無くてはならないものではなく、また実現可能とも考えられていません。そのためにドーバー海峡を挟んでフランスと対峙するイギリス空軍戦闘機にとっての第一の任務はロンドン防空に重点化されるようになり、ゾーンファイターと邀撃戦闘機という二種の戦闘機を生み出しているのです。

 そしてイギリス空軍は仮想敵国であるフランスを屈服させるために当時の最新理論である戦略爆撃論を他国に先駆けて採用し、そのための爆撃機を開発するようになります。この時代の爆撃機は第二次世界大戦前の航空技術躍進期以前の旧式な形態ですから一見、戦略爆撃といった新思想とは無縁に見えますが、イギリス空軍の爆撃機部隊はこのような機体を使ってフランスの政治、経済、工業の中心に対して昼間精密爆撃を実施してそれらに大打撃を与え、夜間爆撃によってその復旧を妨害するというドクトリンの下で編成され訓練されていったのです。

 このドクトリンの背景には爆撃機が投弾可能な爆弾の合計トン数とその破壊力の研究と、精密爆撃法と爆撃目標選定の研究があり、昼夜連続の空襲の結果、フランスの持つ戦争継続能力のどの分野を何%破壊できるかという試算があります。第一次世界大戦中に敵地に侵入した連合軍爆撃機部隊がどれ程の損害を蒙ったか、といった否定的な事実はあまり省みられず、理論上の戦略爆撃研究が1933年のナチス台頭まで続けられます。イギリス空軍は欧米列強の中でドーウェの思想の重要部分をなす戦略爆撃論に最も影響された空軍だということができます。

 こうした対フランス航空戦略の下でイギリス空軍は成長し、1933年にヒトラー政権が誕生してドイツ空軍の復活が確実視されるまでイギリス空軍が睨んでいたのは南の空でした。ナチスドイツの出現によって仮想敵国はただちにドイツへと切り替えられましたが、その基本概念は変わらず、空中戦ゾーンがドイツ空軍機の侵入経路となるイギリス本土東部へと拡大された程度です。

 1930年代前半であれば、たとえ仮想敵国がドイツに変わってもドイツ空軍戦闘機がドーバーを越えてロンドンへ現れることはフランス空軍戦闘機以上に考えられませんから、ゾーンファイターも邀撃戦闘機もそのまま継続されますが、ただ敵国の中枢が遠くなった分だけ大型の爆撃機が必要となり、戦略爆撃構想をドイツに適用するために四発爆撃機の開発が他国に先んじて開始されます。しかしその理論的背景は1920年代を通じて続けられた幻の対フランス航空戦の研究にあります。
世界大戦後最初の敵はフランス、ということです。

4月 25, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: イギリス空軍

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