輸送機撃滅は失敗

 戦闘機、爆撃機、高射砲、レーダー、野砲による飛行場攻撃まで含んだ組織的な輸送機邀撃網が作り上げられたにもかかわらず、ドイツの輸送機はデミヤンスクと同じように、悪天候をついて、あるいは超低空での侵入を試みながら輸送を継続します。ソ連空軍は最後の最後までこの空輸作戦を止められません。

 最終的に488機の輸送機と輸送任務についた爆撃機が失われますが、この半数はソ連軍によるものではなく事故等が原因ですからデミヤンスクに比べて冴えない成績です。このソ連側邀撃戦の不振にはいくつかの理由があります。

 デミヤンスク空輸作戦とスターリングラド空輸作戦を比較した場合、印象としてはスターリングラードの方が厳しい環境に映りますが、デミヤンスクは幅30m×600mの滑走路一本と20機から30機の運用能力しかない野戦飛行場(日本軍の前進飛行場とほぼ同規格)たった一ヶ所が命の綱だったのに対して、スターリングラードは、有名なピトムニクにグムラク、ボルシャロソシュカ、バサルジノ、スターリングラードスキィと6つの飛行場があり、しかも規模が大きく、出発地のタチンスカヤやモロゾフスクが野戦飛行場であったことを差し引いてもかなり有利な条件です。

 さらにこの頃のドイツ輸送機はXゲレート、Yゲレートの装備があり、ラジオビーコンに誘導されていましたから、夜間、荒天にかまわず、霧の頻発するドン川流域で「全天候」(笑)かつ24時間の輸送が可能でした。

 問題としてはBf109の航続力不足で満足な護衛が付けられなかったことが一番で、肝心の落下タンクが1月後半まで届かず、苦肉の策として包囲陣内にJG3から選抜したBf109のピトムニク小隊を送り込むことや、ルーマニア空軍のZG1が装備していたBf110を出撃させるなどの代替策が採られています。

 ドイツ空軍はこのような状況から空輸作戦をやや楽観視していたようですが、対するソ連戦闘機隊が前の冬よりも比較にならない程強力になっていることは想定外のことで、まだ「質的優位」に自信を失っていません。

 結果的にはソ連軍は霧による視界不良や荒天、夜間を利用して侵入する独空軍輸送機を完全に妨害できません。レーダーサイトの数と配置に問題があり、通信がうまく行かず、そんな中でようやく輸送機を捕捉したソ連製戦闘機の武装は限られた視界で放つ一撃で敵を撃墜するには貧弱であると評価されています。

 この苦々しい経験からYaK戦闘機への37mm機関砲装備が促進されます。
ソ連戦闘機の大口径機関砲は地上攻撃にもきわめて有用でしたが、その装備が促進されたのはスターリングラードの輸送機/爆撃機撃墜が数少ない射撃チャンスと敵の防弾装備のために困難であったことが大きな要因です。

 輸送作戦は完遂されたけれども失敗、輸送妨害作戦は強力に実行されたけれども不十分、と両軍ともに苦い戦いとなったスターリングラード空輸作戦でした。

 ドイツ空軍はこの作戦に教官任務に就いていたパイロットを動員してしまったために、既に1942年初頭から短縮教育を開始していた補充パイロット養成がこの戦いを境に決定的に破綻します。それはこの時点で航空戦の敗北がハッキリと見えてしまったということです。たとえ「智将」マンシュタインがどう考えていようと、東部戦線は1、2年で崩壊するとここで決まったのです。

 一方のソ連空軍は包囲陣への輸送妨害が期待通りに進捗しなかったことについて、微妙な考えが育ち始めます。それは「輸送機を妨害するより、敵の滑走路上に戦車を走り込ませた方が早いのではないか」という発想です。事実、スターリングラード空輸を縮小、崩壊させたのは戦闘機ではなく、飛行場を蹂躙した戦車部隊だったからです。

 この男らしくキッパリした発想はソ連空軍の前線航空指揮官たちの本音として根強く残り、その後のソ連空軍の戦術にも大きな影響を与えることになります。