ドイツ空軍はどれだけ「痛かった」か?
1941年6月22日から4ヶ月の間にソ連空軍は少なくとも8000機、ひょっとすると10000機を失っていながら、それでも継戦可能だと判断できたのは実際に経験した損失率が戦前の試算の枠内に収まっていただけでなく、飛行機の補充が損害を補えるペースで実施されていたからです。ウラルへの工場疎開を盛んに実施していたこの期間だけでも西部戦線のソ連空軍は4500機以上の新造機を受領していましたし、東部と内陸の基地群に展開していた予備兵力8000機を順次、西部戦線へ向けて移動させています。工場の疎開が完了し生産のペースが上がれば現状の怖ろしい損失率がまだしばらく続いたとしても当面、ソ連空軍が消滅することはありません。
一方、古今未曾有の勝利を収めたドイツ空軍の損害はどのようだったかと言えば、ソ連空軍よりも遥かに少なく開戦3ヶ月目の9月27日で累積1603機が失われ、1028機が損傷しています。週平均の損害で見ればソ連空軍が約440機に対してドイツ空軍は174機を失っています。この損害比率はノモンハンの航空戦に近いところが面白い点です。(対戦したソ連機がほぼ同じ機種ですから「Bf109Fは九七戦と同じくらい強い」ということかもしれませんが、そんなことは怖くて口に出せません。)
先に触れた開戦から一週間の激戦でソ連空軍は猛然と反撃していますが、6月中の損害は累計2046機、そのうち1339機は初日の奇襲攻撃による戦果ですから6月23日から月末までの損害は707機となります。これに対してドイツ空軍の同期間の損害は699機なのです。ソ連空軍は意外にも奇襲の打撃から立ち直ってよく反撃したと言えます。このために東部戦線のドイツ空軍は6月末、一時的に可動機数960機という厳しい状態に追い込まれます。
1940年のバトル・オブ・ブリテンの3ヶ月の損失機数が1385機だったのですから、バルバロッサ初期3ヶ月の損失機数1603機とはドイツ空軍にとってどの程度の痛手だったか想像できます。しかもこれだけの損失に耐えてもまだ航空優勢は完全に確立せず、ソ連空軍は反撃を続けているのです。
ドイツ空軍は東部戦線に6月22日から11月1日までの間、平均2462機の兵力を維持していましたが、この損失率はソ連空軍に比べれば遥かに所帯の小さいドイツ空軍にとって背筋の凍る数字です。ソ連空軍が年間300%の消耗を覚悟していたのは前に触れましたが、ドイツ空軍の損失率は年間に換算して360%に達しています。
損失を無視できないのは機体の消耗だけではありません。本土の邀撃戦のような戦いと違い、東部戦線の侵攻作戦では敵地上空で撃墜されたパイロットはまず帰還できませんから、6月22日以降11月1日までの間に月平均318名のパイロットが失われています。東部戦線のドイツ空軍パイロット総数は月平均で2963名でしたからこの数字はドイツ空軍にとって耐え難い水準です。
東部戦線の航空戦はドイツ空軍にとってもかなり過酷な戦いで、1941年中は何とかこの損害に耐えて兵力を維持し続けますが、限界は間もなく見えて来ます。
3月 7, 2008
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Posted in: ソ連空軍, ソ連空軍復活の背景
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