空軍不振、本当の理由
圧倒的な兵力で侵攻したソ連軍に対して少数で装備も悪いフィンランド軍が善戦健闘したことは戦記読み物の世界ではこの上も無い物語になりますが、諸兄がもしスタフカの参謀であったなら苦戦の報告を受けて開口一番「航空支援はどうなっているのだ」と問い返すはずです。ドクトリン通りに戦闘が実施されているかどうかを確認することが重要だからです。
実際、冬戦争緒戦のもたつきはソ連空軍がほぼ1ヵ月にわたり殆ど有効な出撃を実施できていないことが最大の原因なのです。前線陣地への直接攻撃も不十分かつ不適当である上に鉄道拠点、交通要衝、港湾などへの攻撃もほとんど実施されず、フィンランドの海上封鎖はおろか、前線への鉄道輸送、自動車輸送、増援部隊の移動もまったく妨害できないのですから、ただでさえ有利な国境陣地線に拠る防衛側は戦闘の重点を自由に増強できます。これでは地上戦が進捗する訳がありません。
こうした空軍の不振の原因としてはこの方面の悪天候と冬季装備の不足、粛清による指揮官クラスの不足と質の低下が指摘されていますが、それだけで全てを説明することは不可能です。両軍とも同様に人材と装備に苦しんでいたからです。
とにかく戦争初期の1ヵ月もの間、ソ連空軍が何をしていたかが問題なのですが、この期間、ソ連空軍は一所懸命に出撃を繰り返していたのです。ただ当時のソ連軍ドクトリンでは長距離爆撃部隊を除く航空部隊の指揮権は地上の軍司令部か、場合によっては軍団クラスの司令部に委ねられることになっています。
これはノモンハンでも同様で、ソ連軍が目指した縦深突破戦略の下では地上軍指揮官が総合的な視野を持つ優秀な人材であれば航空支援をより濃密に得ることができると考えられたからです。しかしあらゆる戦線にジューコフのような積極果敢で冷静な指揮官がいるとは限りません。
ドクトリンを実施に移すには空地一体の攻勢を指揮できる司令部を用意できるかどうかが極めて重要ですが、ソ連軍の場合、突破作戦重視のために空軍の指揮権限が必要以上に下級の司令部に委譲されていたので、航空部隊への出動命令は個別の戦闘に関わるものばかりとなり、しかも空地の連携が悪いので時間と目標が間違いだらけで効果が無く、敵航空基地への組織的な航空撃滅戦もできなければ、集中的な戦術阻止攻撃も実施できないという、拙劣で無効な攻撃を繰り返しながら、ただひたすらに忙しいだけの1ヵ月を過ごしてしまったのです。
空軍の指揮をどのように重点化するか、そのためには参謀達に異なる任務を兼務させない、などドクトリン実施に関する手法は既に存在していますが、冬戦争ではそうした工夫は殆ど見られません。出撃の遅れに誤爆、更にはドクトリンに規定されているヘクタールあたりの爆弾投下量ノルマを果たすためだけの無効な出撃など、どこから見ても不慣れで拙劣な対応ばかりが目に付きます。
こうした現象が発生した理由をソ連という国家の体制やスターリンの行き過ぎた粛清に求めることは間違いとは言えませんが、単純な結論を出す前に1930年代末にソ連軍がどのような状態にあったかを振り返る必要があります。
ソ連軍は1938年には全軍で150万程度の規模を持つ軍隊でした。それが1941年には総兵力が500万を超え、さらに1400万が動員中でした。
空軍についても急速に増設された養成施設から1937年に8713名の航空将校が卒業し、1938年には12337名、1939年には27918名もが卒業しています。ドイツや日本と比べると息を呑むような大規模養成ですが、こうした急速な政策は実施面での破綻も大きく、練習機は50%の不足、燃料は60%の不足、肝心の教官は44%も不足している中で短縮と繰り上げによる教育が行われていたのです。
それでも1941年には航空将校の不足は計画上60000名にも達し、その不足分には粛清による6000名の欠員も含まれていますが、それはそれで膨大な犠牲者数ではあるものの総合的な欠員の10%程度でしかありません。
ソ連空軍不振最大の理由はこうした急速な軍備拡大による将校クラスの質の低下で、戦後のソ連空軍もそれを認めています。
小規模な戦闘だった支那事変やスペイン内戦へは選別された熟練パイロットを送り込むだけで済み、ノモンハンには錬度の高い他の戦線から部隊を移動させることで凌げましたが、独ソ戦前の最大の小戦争といえるフィンランド侵攻にはこうした姑息な手段では対応できなかったことが「ソ連空軍は経験を積めば積むほどに弱くなるように見える」原因なのです。
けれど、もしこのような無謀な動員を実施しなかったら・・・・。
3月 7, 2008
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Posted in: ソ連空軍, ソ連空軍復活の背景
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