「大正・昭和林業逸史 上下巻」編集林業経済研究所
   日刊林業新聞社 昭和47年10月20日発行

 まあ取り合えず妖しい本は開いて見る事。そうすればきっと良いことが。

 見るからに皆様の関心を呼ばない本の題名ですが、なにがなにが恐ろしい事が書いてありました。
 ①戦時中のニューギニアでの木材製材の様子。
 ②立川飛行機会社でのキー106での接着剤の失敗談。
 ③台湾の京大演習林でのキナ樹(キニーネの材料)の栽培と採皮。  (前に書いた塩野義製薬の話とはニュアンスが違います。)
 ④南洋群島での木材資源、造林などの様子。
 ⑤枕木の製造(防腐処理)の仕方。(これにはクレオソート油を使用  します。クレオソート油は石炭コークス製造時に副生するもので、  戦前は日本でも多量に取れ、アメリカに輸出されていました。戦時  中は製鉄所の平炉などで燃料として使用されました。)
 ⑥朝鮮半島での松根油の生産、菊芋(アルコールの原料)の栽培。

 そして、最大の収穫は
 「戦時マライ半島の日本製鉄製炭事業」 山崎泰義
 でした。
 座敷牢で書いた「秘密の製鉄所」、あれは日本鋼管での話でしたが、これは日本製鉄(現在の新日鉄)のマレー半島での製鉄とそれに使用した木炭の製造の様子を書いたものです。
 日本製鉄のマレーでの製造計画は占領後すぐに始まり、昭和17年7月には陸軍次官通牒により日鉄あて「マライにおける木炭銑企業化調査を担当せしむ」の正式指令が下りました。昭和18年3月陸軍省より正式の指令がおり事業化が進められました。タイピン市郊外に木炭銑製造設備(25トン炉2基、年産15,000トン)イポー鉄山より鉄鉱石、石灰石。ブフ付近に自営製炭所を持つもので「マライ製鉄所」と呼ばれました。
 また、製鋼も計画されクランに平炉設備・圧延設備が建設されました。平炉は小倉製鋼の25トン平炉3基移設、厚板は寿重工業の大津工場、薄板は八幡その他より各一連移設されることになりました。
 「日本製鉄社史」によれば終戦時までの作業の経過は次ぎのようです。
  タイピン作業場
 木炭銑25トン第1炉は昭和19年2月。第2炉は10月、また3トン電気炉第1炉は昭和19年7月、第2炉は11月に火入れを行った。また木炭窯は、208基のうち197基の完成をみた。
  クラン作業場
 25トン平炉1基は資材の大部分が到着し、建設進行中であったが、第2、第3炉は未着手であった。厚板設備は機械が大部分到着したが、ロールが未着のため未完成、薄板設備は資材12%が輸送済のまま未着手であった。鍛圧工場は水圧プレス、スチーム・ハンマーとも現地調弁で工事中であった。鋳鋼工場も建設準備中、発電所は現地日本発送電会社保管のものを解体し、建設中であった。そのほか。木炭溶鉱炉15トン2基、木炭窯とも建設途上にあった。
 とあります。
 「林業逸史」には各炉での材料使用量、生産量、木炭製造量、木炭買炭量(木炭、自家生産では足りない為、三井物産が現地の民間で焼かれたマングローブ炭を購入し、供給しました。)が詳しく記載されています。また、生産までの過程、生産状況、終戦後の様子、「社史」には触れられていない事業計画などなかなか興味深いものがあります。
 なお終戦までの銑鉄生産量は6,200トン、木炭製造量5,400トン、木炭買炭量11,600トンでした。銑鉄は鋳物用として現地で使用されたようです。
 「日本製鉄社史」と「林業逸史」を合わせて読むことで鮮やかにマライ製鉄所の姿が明らかになります。

   最近読んだ本
 「東京セブンローズ(上)」井上ひさし 文春文庫