「続鳴呼中千島」 中千島戦友会
    平成三年一二月二五日発行
 終戦時、北海道は稚内に主に駐屯していた第四十二師団の千島での状況を将兵達が書いた本である。日露戦争当時、旅順攻囲戦で活躍した「九糎臼砲」「十五糎臼砲」いつまで使われていたのかずっと疑問に思っている。

 独立臼砲第十五大隊は東部第七十五部隊(旧横須賀重砲兵連隊)にて昭和十九年自三月十二日至五月十二日に、其の編成を完成した。
 大隊本部-将校、下士官、兵   四一名
 第一中隊-将校、下士官、兵  二八〇名
 第二中隊-将校、下士官、兵  二八〇名
  大隊長 陸軍大尉 島森 晃以下将兵合計数六百一名
 昭和十九年五月二十九日小樽港で輸送船「日振丸」に乗船し、六月一日千島列島の松輪島に上陸を始めたのだが、米潜の魚雷攻撃を受け轟沈した。戦死、行方不明将校下士官兵二百六十一名に及んだ。(其の時の水温は-八℃?)臼砲二十四門、兵器、弾薬、被服、糧秣、需品、医薬品、野戦炊具、(最新式歯科医器具一式、最新調理器具一式)等々、戦斗、警備、駐留に必要なる一切の器具、材料を海没してしまった。その後特別調達品(海没兵器、その他の必要品の補充)は次々急送により到着し、補充将兵の到着は昭和十九年九月末であった。
「独立臼砲第十五大隊(島森部隊)始末記」独立臼砲第十五大隊本部 釼持 善夫氏著

これらの臼砲はてっきり九糎か十五糎と思っていたら、なんと、日本の秘密兵器「九八式臼砲」だった。シンガポール、インパール、硫黄島?、沖縄で使われていた貴重品が北の果てにも送られていたのであった。

刺突爆弾(ドイツ、タ弾式)
当時盟友国、ドイツから伝授されたという我隊の鍛造兵が製作した
爆装部は丸型でジョウゴ形、大きいところの外径は二十糎位のもの
木棒長さ二米
ブリキ(乾燥野菜入の缶など利用)
火薬(最も強烈である灰色薬を使用)
良洋丸(座礁船)鉄板(厚さ七~八ミリ)
正面は鉄片か?ブリキ?か忘れました
砲弾起爆用の信管(瞬発信管で激突すれば即炸裂)
実験は二十年六、七月頃、松輪島旭台下の陸揚場近くで行なわれた。そこには難破船の海軍船がありこの分厚い鉄片部を目標に行なわれた。
成功、見事五、六センチのやや丸い穴で二十糎位の鉄肉部を貫通している。
これが製造は三十個位作ったが終戦時海中に全部投棄した。
この新兵器は日本軍の各戦線に通報されたが作製まではいかなかった処が多いらしい。
「松輪島の思い出」第四十二師団兵器勤務隊 牧 良助氏著

刺突爆雷、フィリピンで実演中に死傷者を出した事を聞いたことがある。北の果て、寒いのによく自分達で作った。ところで、満州では使われたのだろうか?

「日振丸」山下汽船4367総トン大正8.4大阪鉄工・桜島で建造
「良洋丸」東洋汽船5974総トン昭和6.1.15神戸・川崎造船で建造

引用・参考文献
「嗚呼中千島」中千島方面戦没者慰霊碑顕彰会
 昭和五十四年八月一日発行
「日本の大砲」竹内昭/佐山二郎
 昭和61年4月25日発行 出版協同社
「日本商船・船名考」松井邦夫
 2006年8月1日発行 海文堂
部屋には船と大砲の本はこれくらいしかないのです。