太平洋戦争中の資源問題(特に鉱物)なんて興味を持つと恐ろしい迷路に入り込む。幸いな事に、身近のミリタリーマニアにはこうゆう趣味を持った方がおらず、実に喜ばしい限りである。(そもそもそうゆう人間をミリタリーマニアとは呼ばないか)
さて下記の本に触発されて戦中のボーキサイト還送の記録など書き写す。日本でボーキサイトが取れないことはよく知られているが、蘭印ビンタン島以外の数字を書いてある資料にはあまりお目に掛った事がない。
(1)ビンタン
ビンタン島では古河リオ島ボーキサイト鉱業所を開設、昭和17年5月にボーキサイトの手掘を開始、同7月から正式操業を開始した。
採鉱量は
昭和17年 単位トン
採鉱量 377,620
還送量 374,092
配船数 76
昭和18年
採鉱量 731,428
還送量 648,840
配船数 113
昭和19年
採鉱量 311,126
還送量 648,840
配船数 44
昭和17年5月押収品14,000トンは別に還送
(2)マラッカ(マレー)
戦前、英領マラッカ(マラッカ州マラッカ市を経てジョンホールに通じる街道を海岸沿いに7マイル、ブケ・スプランから北方約5マイル)で石原産業はボーキサイトの存在を確認(鉄鋼石採掘を大々的に行っていた)していたが、英国の介入を恐れ、試掘の申請を断念していた。
占領後開発を始め昭和17年末には第一期計画が完成した。昭和 18年3月積取第一船楽洋丸を迎えた。
還送量 124,000トン
積取船 9
(3)パセル(マレー)
ジョンホール州バトパ市郊外2マイルにあり、戦前より、石原産業の手で採掘がおこなわれ、昭和11年12月より17年7月までの間に166,000トンの鉱石を日本に送った。
昭和18年より還送開始
還送量 約40,000トン
積取船 勝鬨丸(2回)生和丸、福寿丸。阿波丸
(4)南岸(マレー)
マレー最南端タンジョンプンカイ付近で昭和11年石原産業が発見し、試掘を願い出たが許可されなかった。
占領後開発、採鉱を行なったが充分活用出来なかった。
積出は昭和19年7月、冬川丸の3,488トンで終わった。
(5)パラオ島
南洋アルミニウム鉱業株式会社(三井鉱山と南洋拓殖が設立)が昭和13年から開発した。他にヤップ島、トラック島にもボーキサイトの存在を確認している。戦前、戦中のパラオ島のボーキサイト採掘、還送は実際に行われ、断片的な数字もよく目にするのだが、信憑性のある数字には出会っていない。年産3万トンの計画であった。
昭和13年 単位トン
還送量 3,365
昭和14年
還送量 13,987
昭和15年
還送量 22,495
昭和16年
還送量 59,297
昭和17年
還送量 103,907
昭和18年
還送量 84,940
昭和19年
還送量 4,488
(6)仏印
〇中国広西省及び仏印との国境地帯のランソン部落
〇海防より上流50㌔余クアナム川とクアカム川とに連結する運河の北方3㌔余に位置するローソン部落。採鉱業者は中日海運会社
〇諒山付近、老檛付近。1937年に7,000トンが日本曹達に送られている。
仏印のボーキサイトは耐火れんがに使用されたとの記述があるが確認は取れていない。
昭和16年 単位トン
還送量 3,215
昭和17年
還送量 15,937
昭和18年
還送量 2,450
引用文献
「創業100年史」古河鉱業株式会社
昭和51年3月31日発行
「創業三十五年を回顧して」石原産業株式会社
昭和31年10月1日発行
「パラオ共和国―過去と現在そして21世紀へ―」
平成15年4月30日発行 全国政経連合会
「日本戦争経済の崩壊」アメリカ合衆国戦略爆撃調査団 正木千冬訳
日本評論社
「南方産業技術総覧」
昭和19年6月20日発行 山海堂
「佛領印度支那」
昭和18年10月25日発行 精興社