もはや「戦車」師団にあらず

 戦車大隊の数を8個大隊から6個大隊に減らし、ハーフトラック化された機械化歩兵大隊と自走砲大隊を各2個大隊から各3個大隊に増加した1942年型戦車師団の編制は各兵科のバランスを改善し「Combined Arms Tactics」に適合させるためのものでしたが、1943年2月のチュニジアでの戦闘でこの編制の戦車師団は大損害を蒙ります。これが有名なカセリーヌ峠の戦闘です。この敗北で戦車師団の編制についてさらに諸兵科協同のための改善が検討されることになります。

 この編制改善案の提案者はタンクデストロイヤー派のマクネア中将です。マクネア案は戦車師団を戦車と歩兵、砲兵を対等に組み合わせた諸兵科混合の戦闘集団に変革することを目的としています。1942年型の戦車師団編制は兵力バランスを改善したとはいえ、敵の主要防御線を突破して後方へと突進する戦車集団とその支援部隊としての歩兵、砲兵という性格を色濃く残していましたが、マクネア案は戦車と歩兵、砲兵をそれぞれ対等に3個大隊ずつ持ち、それまで戦車師団が持っていた戦車連隊組織を廃止するというもので、「Combat Command」はA、B、R(予備)となり、編制上はかなりシンプルになります。

 編制改善は「Combined Arms Tactics」に沿ったものという建前ではありますが、生え抜きの戦車将校にとっては戦車部隊の地位が相対的に低下するこのような編制は素直に受け容れ難いもので、それまでマクネア中将と事あるごとに対立していたデヴァース少将はマクネア案に強力に反発し、北アフリカ戦線にある戦車師団の編制改変を阻止して1942年型編制のまま維持させることに成功します。

 しかしアメリカ本土にあった残りの戦車師団は全て新しい戦車、歩兵、砲兵、各3個大隊で戦車連隊組織を廃した1943年型編制に改変されてしまいます。デヴァース少将の介入で維持された1942年型編制の第2戦車師団と第3戦車師団は「戦車師団(Heavy)」と呼ばれ、1943年型の第4戦車師団以降は「戦車師団(Light)」と呼び分けられるようになります。

 ということで、アメリカ陸軍戦車師団の編制には1942年型の(Heavy)編制と1943年型の(Light)編制の二種類があり、2個戦車連隊(6個戦車大隊)を持つ(Heavy)編制は旧概念に基づく特殊な編制で、師団の数を揃えるための簡易な戦時編制のように思える(Light)編制の方が標準で多数派であったことがわかります。ドイツの戦車師団とアメリカの第2、第3戦車師団の編制を比較して、アメリカ軍の豊富な物量とドイツ戦車部隊の寒々とした現実とを見比べると気が遠くなりますが、(Heavy)編制のアメリカ戦車師団こそが実は異様で巨大な旧式師団だったということです。

 しかしその後の実戦での評価は複雑で、諸兵科のバランスが取れている(Light)編制は確かに組織のとり回しが良く臨機応変に使える利点がありましたが、旧式で大袈裟なはずの(Heavy)編制は戦闘の損害を補いつつその豊富なリソースを利用して継戦能力が高いという評価も受けていますから、どちらが有効とは簡単には言えないようです。

 さらに二つの編制のどちらが有効かという事以上にこの編制改革の背景にある「戦車師団の変容」にも注目する必要があります。1939年~1941年の電撃戦時代と異なり、歩兵や砲兵の戦術が戦車部隊の突破に適応してきた戦争中期以降は以前のような戦車の大集団とそれを支援する比較的少数の歩兵、砲兵部隊という編制の有効性は失われつつあり、敵の主防御線を突破することが段々と難しくなっています。ルイジアナ演習のような事例が東部戦線の戦闘でも繰り返されていたのです。

 そのつもりで1943年9月実施のアメリカ戦車師団(Light)の編制と同時期のドイツ戦車師団の編制を比較すると当時の戦車師団の変貌がよく解ります。アメリカ戦車師団は戦車大隊3個を持ち、168輌の中戦車が装備されることになっています。これに対してドイツ戦車師団は戦車連隊1個(戦車大隊2個)で中戦車であればほぼ同数の162輌程度が標準で編制上の戦車装備数はあまり変わりません。建前としての師団戦車戦力は互角だったのです。

 では歩兵部隊はどうでしょう。アメリカ戦車師団はドイツ流で言えば装甲擲弾兵3個大隊を持っている一方、ドイツ戦車師団は装甲擲弾兵1個大隊と自動車化歩兵3個大隊を持ち、SSのエリート戦車師団であれば歩兵大隊は6個になります。砲兵ではアメリカ戦車師団は自走砲3個大隊、ドイツ戦車師団は自走砲1個大隊、牽引砲2個大隊で、これもSS戦車師団では4個大隊となります。師団の総兵力はアメリカが10000名、ドイツは14000名程度が編制上の標準です。ドイツ師団の方が大規模なことがわかります。

 アメリカ戦車師団は戦3、歩3 砲3の兵力バランスですが、ドイツ戦車師団は戦2、歩4(6)、砲3(4)であるということで、アメリカでもドイツでも戦車師団は戦車兵力を減少させて歩兵と砲兵を強化していることがわかります。アメリカの初期戦車師団編制やドイツの1939年編制の戦車師団はどちらも300輌前後の戦車を装備していますが、物量が豊富であるかどうかとは無関係に後期の戦車師団は戦車の保有量が大幅に減少しています。

 このように第二次世界大戦後期の戦車師団とは開戦前の戦車師団とはまったく別物の「戦車大隊に支援された機動歩兵師団」とでも言うべき存在に生まれ変わっています。こんな様子を眺めながら戦史を読んでいると東部戦線などによく発生する「戦車連隊を抽出されてしまった戦車師団」が戦い続けられる理由も理解できるようになります。彼らの本質は「装甲兵車と自動車を豊富に持つ砲兵の強化された歩兵師団」だったからです。

 けれども前線にある戦車師団が編制通りの兵力で戦うことは稀です。損害による定数割れはアメリカ軍でも日常的にありましたし、補給の厳しいドイツ軍では永久に編制定数は満たされません。前線でやせ細ってしまったドイツ戦車師団の実兵力とアメリカの(Heavy)編制師団の建前上の編制を見ると「物量の差」に圧倒された気持ちになりますが、戦車師団というものは単独で戦うものではありません。アメリカ戦車師団であってもタンクデストロイヤー大隊などを継続的に派遣されているのが当たり前です。ドイツ戦車師団に至っては編制通りで戦うことなどまずなく、攻勢時にはほぼ必ず何らかの支援兵力を増強されて戦うことになります。

 戦車の大規模集団による圧倒的突破という機動戦の基礎を体現した存在であるはずの戦車師団は戦争中期以降、段々とその性格を変容させて、ついに質の面でも量においても諸兵科協同戦術のための柔軟性を重視した戦闘団司令部と各種兵力プール及び補給支援組織といった存在にたどり着いています。もはや戦車師団であるかないかということは本質的な問題ではなくなって来ていたのです。

6月 19, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: タンクデストロイヤーとは?, 陸戦

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