スピットファイアに行き着くまで

 1930年代前半のイギリス空軍戦闘機開発は従来の戦闘機コンセプトからその重点を最大速度と火力に絞り込む過程にあります。そしてこの数年間は第一次世界大戦以来の複葉戦闘機から単葉の高速戦闘機への転換という航空技術上の躍進と同時に戦闘機の概念も大きく揺れ動いた時期でもあります。イギリス空軍の戦闘機コンセプトの転換を促した要因をひとことで言えば主に戦術的な問題で、航空技術の急速な発展はその背景をなしてはいるものの、どちらかといえば補助的な要因で、先行する戦術的概念を躍進期にあった航空技術が支えてゆくような関係にあります。

 1930年代前半、イギリス空軍にとって戦闘機開発上の最大の不安は「将来登場するだろう高速爆撃機に対して有効な攻撃を加えられるか?」「爆撃機編隊の防御火力に戦闘機は勝てるのか?」という、速度と火力の問題でした。このような既成の戦闘機に対する疑念は当時、日本も含めて世界中に蔓延したもので「爆撃機は単座戦闘機の攻撃に対して本当は脆い存在だった」との認識は各国空軍が実戦を体験するまで定着しません。1920年代から1930年代にかけて流行した独立空軍論、戦略爆撃論もこうした爆撃機優越論に支えられています。

 昼間戦闘と夜間戦闘を兼任する「ゾーンファイター」だったブルドッグの後継機計画、F7/30はそうした高速化の要求強化によって仕様の決定も遅れ、試作発注も実機の試作も遅れてゆきます。夜間に安全に着陸するための着陸速度制限と、「空中戦ゾーン」を哨戒飛行するための滞空時間要求が高速化を阻みますが、何よりも戦闘機用の小型大馬力発動機が今のところ存在しないという問題が最大の障害となります。

 適切なエンジンが無いのに計画要求だけが先行していたということで、「概念先行で技術が後を追う」のが当時の戦闘機開発です。こうした戦時中の日本のような状況下では、飛行機設計者には必要以上の負担が掛かります。ミッチェルやカムといった有名設計者の伝説はこのあたりの苦労をベースに語られています。

 そうした伝説は概ね「保守的な軍中枢に対して設計者たちは最新の技術を反映した新型機を提案し、使い慣れた複葉機に固執する勢力と対立した」といったものです。ミッチェルやカムの伝説はまさにこの文脈で語り継がれていますから、スピットファイアもハリケーンももっぱら設計者たちの自主的提案によって、軍のレギュレーションを破る革新的機体として生み出されたことになっています。

 けれどもスーパーマリンが提出したF7/30は単葉機でこそあれ、操縦席は複葉戦闘機と同じ開放式で、脚が引込むわけでもない凡庸な仕様になっています。空軍の要求が強化されず、このまま採用されていたら「スピットファイア」は1930年代中盤には旧式化して引退していたかもしれません。

 ハリケーンにしても同じようなものです。フューリー後継機計画はF5/34として開始されますが、試作発注はホーカーではなく、グロスターとブリストルに対して下されます。ならばホーカーはフューリー後継機計画に対して無関係かと言えばそうではありません。ホーカーにはフューリーに発動機換装と翼面積の変更などを施した「高速フューリー」の試作が命じられ、公式に予算化されていたのです。もし空軍当局が計画要求を強化しなければハリケーンに該当する戦闘機は複葉の改良型フューリーとなっていた可能性があります。当たり前と言えば当たり前のことかもしれませんが、軍の発注で製作する軍用機ですから要求仕様が進化しなければ飛行機そのものの進化もあり得ません。

 そしてさらに重要な問題として、戦闘機の機種分類が見直されつつあったことも無視できません。今まで昼夜の哨戒と戦闘を任務とする「ゾーンファイター」と前進基地で急発進する昼間専門の高速邀撃機「ファイター(インターセプション)」と二つの機種分類が存在していましたが、実際に演習の経験を重ねるにつれ、この構想には無理があると考えられるようになります。

 1931年の演習では「ファイター(インターセプション)」であるはずのフューリーが前進基地では有効に使えず、結果的に昼間専門の「ゾーンファイター」として活用されています。多少、上昇力があり高速であってもそんなに便利に急速発進して邀撃できないという問題です。さらに「ゾーンファイター」であるブルドッグに対しても「編隊灯を点灯している演習中ならまだしも、実戦で灯火を消して侵入する敵夜間爆撃機を本当に発見、捕捉できるのか?」という疑念が生まれます。

 それぞれの機種分類に対して疑念が生じたと同時に敵の高速爆撃機に対応してより高速を求めるようになった空軍の戦闘機計画が二つの機種の境界を曖昧にしてゆくことになりますが、各計画の概要と相互の関連を紹介する前に、イギリス空軍の複葉戦闘機計画についても触れておく必要があります。

 第二次世界大戦を迎えても、ソードフィッシュやグラディエーターといった複葉機を飛ばしていたことでイギリス空軍には保守的な印象が付きまといます。その理由を説明しなければ、「イギリス空軍は複葉機に固執していない」との主張にも説得力がありません。

 単葉機かあるいは推進式複葉か、さらに奇抜な形態を採用するかが検討されたF7/30のような計画が進むかたわらで、既存の複葉戦闘機を改良し武装強化する計画も進められます。複葉ではあっても武装強化というイギリス空軍戦闘機開発の方向性は保たれていますし、イギリスの製造会社はこうした機体を作り慣れていることと、新しい世代の金属製戦闘機とは異なり、既存の生産設備のままで量産できることが複葉戦闘機のメリットでした。

 イギリスの軍用機量産計画は当初、既成の機体を増産することから始まり、それらを置き換える新型機の大量生産設備と生産管理体制を整える段階に進みますが、量を揃えるためには旧い設備で量産できる多少控え目な性能の機体も無視できません。1933年から段階的に始まる大増産計画は旧式設備の活用なくしては成立しなかったのです。イギリス空軍に長く残された複葉の軍用機は軍人特有の保守的傾向の反映というよりも、1933年から開始された航空軍備大拡張の副産物だったということです。

6月 11, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: イギリス空軍

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