Aシリーズの米陸軍機とはどんな飛行機か?

 アメリカ陸軍航空隊が採用した様々な機種の中で、今ひとつその性格がはっきりしない地味な存在がAナンバーを与えられた攻撃機です。単発機あり、双発機あり、それこそ雑多に見える様々な機体規模、戦闘機の転用があり、海軍艦上機の転用ありでいったいこれらを攻撃機として独立した機種としてまとめる共通点は何なのかがよくわかりません。

 A-20とB-25は同じ双発爆撃機なのにどうして機種分類が違うのか、B-26爆撃機とA-26攻撃機はどこがどう違うのかもよくわかりませんし、A-26が戦後にB-26へと改称されてしまうといった出来事にも惑わされてしまいます。

 今回は華々しい戦略爆撃部隊の陰に隠れた地味な存在でありながら実はアメリカの爆撃機部隊で最も歴史が長く、空軍独立論を絡めた地上部隊と航空隊とのドクトリン対決の舞台でもあったアメリカ陸軍航空隊の攻撃機部隊について紹介します。

 アメリカ陸軍航空隊の「攻撃機」とはすなわち地上攻撃機のことです。アメリカ陸軍航空隊の地上攻撃作戦は第一次世界大戦から開始されています。フランス戦線に投入されたアメリカ陸軍航空隊は第一次世界大戦の後半部分で戦果を上げつつも大きな損害を蒙っています。例えばカンブレの会戦ではアメリカ陸軍航空隊は一日あたり平均30%の損害を出しながら地上軍の支援任務に就いています。当時の対空火器は貧弱で照準装置も単純なものでしたが、飛んで来る飛行機もまた単純な構造でしかも低速でしたから地上からの射撃は第二次世界大戦の頃よりも遥かに有効でした。

 そのためにドイツ軍陣地上空で活動するアメリカ陸軍航空隊は敵戦闘機よりも対空射撃によって多くの損害を出しています。第一次世界大戦で経験した成果に見合わない大出血の記憶、これが1920年代から1930年代を通じたアメリカ陸軍航空隊の地上攻撃ドクトリンの形成に大きな影を落とすことになります。

 戦争終結後、アメリカの軍事予算は大幅に縮小されてしまい、航空部隊はその影響をまともに受けて苦しんでいます。機材の更新も進まず、新たな機体の開発も進まず、何とも情けない数年間が過ぎてゆきますが、その間に行われたのは第一次世界大戦の戦訓を理論化する作業でした。公式の地上攻撃ドクトリンは生まれていませんが、経験的な非公式ドクトリンとして地上攻撃に対する考え方が整理されつつあったのです。

 それはざっとこんな形にまとめられます。

・敵陣地への航空攻撃は効果が少なく損害が極めて大きい。
・敵後方への航空攻撃は効果が大きく損害が比較的小さい。
・攻撃機は砲兵の代用品ではない。
・攻撃機は砲兵の射程距離外でこそ活躍すべきである。
・攻撃機は敵後方の兵員の殺傷に最も適している。
・重要目標は移動する予備軍、砲兵の隊列、補給部隊、通信拠点などである。
・攻撃機の最も有効な用法は敵戦線の後方で実施される航空阻止攻撃である。
・航空兵力の用法は敵前線への分散投入ではなく敵戦線後方の適時、適所への大量集中投入が最も望ましい。

 このような大枠が第一次世界大戦後の数年間で攻撃機部隊の中に育って来ます。敵陣地への攻撃を小型爆弾と機関銃をもって実施したとしても、敵兵は壕の中に入っていますからあまり効果が期待できず、逆に陣地に配置された対空火器によって損害のみ増えるという戦訓が「戦線後方での阻止攻撃」という発想を生み出しています。こうした発想は同時に「地上軍の局地的な意図に左右されない航空隊独自の作戦」という方向性をも導き出して、空軍として独立作戦を実施したいという意思が段々と明確になってゆきます。

 しかしアメリカ陸軍航空隊は第一次世界大戦直後には単に「Air Service」として地上部隊に隷属する存在で独自の上部組織を持っていません。攻撃ドクトリンが公式にならないのはそのためです。ドクトリンの洗練と研究は飛行学校などで分散して非公式に続けられていたのです。そしてちょっと意外なことに第一次世界大戦時の平均的な陸戦指揮官達は航空機の重要さをよく知っていました。制空権が無ければ陸戦の勝利など望めないこともよく思い知っています。

 それは極めて単純明快な理由で、飛行機からは敵後方が見えるからです。敵の予備軍の移動が見え、敵に友軍の移動が見えないのであれば、戦闘は極めて有利に進みます。さらに砲兵の射撃を観測機で支援できれば圧倒的に有利になり、しかも攻撃時に敵陣地上空で攻撃機が活動していれば敵の反撃も制圧されます。「飛行機とはかくも万能で役立つものだ」という見解を持たない陸戦指揮官など誰もいなかったことでしょう。大戦中の陸戦で友軍が危機的状況に陥ると指揮官達はその時使える飛行機を洗いざらい投入してしまうのが常識でした。陸戦指揮官達が望んだ飛行機の運用とはこうしたもので、直接的で単純でありながらも切実なものです。こんな便利な万能兵器を手もとに置いて自由にしない手はありません。

 そんな中で1926年にアメリカ陸軍航空隊は「Air Service」から「Air Corps」へと格上げになります。日本の陸海軍航空隊が航空本部を持ったようなものです。これでアメリカ陸軍航空隊の空軍としての独立性が助長されたのかと思ってしまいますが、現実は必ずしもそうではありません。1926年の訓練教程440-15は攻撃機部隊の活動を敵陣地への攻撃任務を主体とすると定めています。陸戦指揮官達の要望がそれまで育ってきた攻撃機部隊の非公式ドクトリンと対立し、アメリカ陸軍航空隊は陸戦指揮官達の立場に同調せざるを得なかったのです。

 こうした状況で、陸戦指揮官達が要求する攻撃機部隊像と陸軍航空隊が自ら到達した航空阻止攻撃を目的とする攻撃機運用とのギャップはドクトリン面だけではなく、機材面にも及んでいます。陸戦指揮官達は第一次世界大戦時とあまり変わらない単発の攻撃機を想定していたのですが、攻撃機部隊はより高速で、前方固定機銃を持ち、防御力に優れ、複座で後部銃座を持つ新しい攻撃機を求めていました。

 そして敵の戦線後方まで進出して航空阻止攻撃を実施するためにはさらに航続力と爆弾搭載量に優れた高性能の双発機が必要だと考えられています。これに対して、陸戦指揮官達の攻撃機部隊に対する考え方はかなり異なります。陸戦指揮官達の理屈は「航空攻撃が行われることで友軍の士気が鼓舞され、攻撃を受けた敵軍の士気阻喪をもたらす。」ので攻撃機部隊はそのための機材を持てばよいというものです。実際の効果よりも士気にかかわる効果が無視できないので敵陣地に対する航空攻撃は重要だという考え方です。これもまた手強く根強い意見です。

 けれども野戦における近接航空支援という課題はアメリカ陸軍航空隊にとって第二次世界大戦の北アフリカ戦線でようやく経験するもので、近接航空支援を効果的に実施する手法はアメリカだけでなく、世界の空軍が最後に学んだ科目だともいえます。

 実際に前大戦で敵前線陣地からその後方まで広範囲に実施されていた地上攻撃の経験の中から航空阻止攻撃という概念を発展させる作業は戦間期に概ね達成されましたが、本当に地上部隊が望む臨機応変の近接航空支援を効果的に実施するノウハウはこの時代には全くありません。航空阻止攻撃や航空撃滅戦、戦略爆撃という概念のあとにずっと遅れて形をなしたのが近接航空支援なのです。

 この時代に陸戦指揮官達が求めたものも理想を突き詰めれば現代でも通じる柔軟な近接航空支援の要求なのですが、表立って現れた要求は公式なドクトリンにあるような「これから突撃する目の前の敵塹壕線を叩いて欲しい。その破壊効果と同時に友軍の士気が鼓舞され、敵軍のそれは阻喪する。」というものです。一方、攻撃機部隊にとってそれは前大戦の経験により損害ばかり大きく効果の小さい非効率な任務だと考えられたことが対立の本質でした。

 地上部隊からの直接支援要求と航空部隊の独自作戦構想との対立という「ミニ空軍独立問題」がアメリカ陸軍航空部隊の特定部門の運用ドクトリンに関しても存在し、それは採用される機種の要求仕様にも影響したという長い話の始まりです。

6月 5, 2008 · BUN · 2 Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

2 Responses

  1. ヤマザクラ - 6月 5, 2008

    拝読しながら、第一次世界大戦のメギドの戦いを思い出しました。
    イギリス軍が航空阻止で後方の敵予備を拘束した結果、
    地上戦で圧勝し、後のディープバトル(縦深攻撃)の先駆として
    英国で高く評価されている、という話です。

    現代戦における防御の根幹ともいうべき「予備の機動的運用」を麻痺させうる航空阻止は、
    攻勢の成否を握っているのかも、と思ったりしました。

  2. BUN - 6月 5, 2008

    ディープバトル。
    こういった言葉がネット上で適切に聞こえて来ること自体、
    勝手ながら友を得たという気持ちになります。
    きわめて木訥とした話ですがどうかおつき合いください。

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