ソ連陸軍が到達した唯一の正解
ソ連軍の大砲好きは戦前のトハチェフスキー時代からの遺産です。機動突破作戦を成立させるためには砲兵と空軍の強力な支援が必須と説いたトハチェフスキーはそれらを「砲兵保証」「航空保証」と呼んでいます。この流れでソ連軍は攻勢用の砲兵集中を早くから準備していて「砲兵師団」「砲兵軍団」といった砲兵火力集中のための組織を整えようとしています。戦略的攻勢に対する「砲兵保証」を実現するためにはこうした形で国軍レベルの砲兵集中を行う必要があったのです。
こうして実施準備の整ったPU-44ドクトリンに基づくソ連軍の機動突破作戦にはそれまでにない特徴があります。それは突破正面の画期的な広さです。ドイツ軍や連合軍の突破作戦は意外に突破正面が狭く、5kmから6km程度の一点突破を基本としていますが、ソ連軍の戦術的突破正面は平均10km程度の正面を持ち、それを複数個所連携させて60kmから120kmの広域の突破口を形成するというものです。
連合軍がノルマンディで実施した各突破作戦はPU-44以降のソ連軍高級指揮官教育においては「突破正面が狭いために失敗した攻勢」のサンプルになっています。PU-44以降のソ連軍陸戦理論ではこうした攻勢は突破正面が狭いために防御側が秩序を失いさえしなければ突破口「両肩」の抵抗拠点形成が可能で、それによって細められた突破回廊を予備軍の側面攻撃が断ち切ってしまうので成功が見込めないとされているのです。
ソ連軍の桁外れに広い突破正面はドイツ流の防御ドクトリンを実施不能にするために採用された究極のドクトリンだったということで、攻勢前半の目標は複数の大型突破口の形成と連結に置かれます。巨大な突破部隊は敵の防衛線を突破するとまずその突破口の拡大のために行動し、ドイツ軍の機動戦のように即座に敵の抵抗が弱い部分を察知してそこへ向けて遮二無二突進して行きません。突破部隊の第一波がこうして概ね幅60kmの巨大突破口を作り上げると、突破部隊の第二波が投入されますが、この部隊も深部への機動戦に移行することなく突破口を120km程度まで広げることを第一の任務として行動します。そうして十分過ぎるほどに突破口が広がった時点で長距離単独行動可能な諸兵科連合の「作戦機動群」が敵防御縦深を一気に突破して機動を行い敵戦線の完全な崩壊を目指すことになります。
こうした攻勢ドクトリンが完全に実施された場合、ドイツ軍の作戦予備は突破第二波か、下手をすると突破第一波に拘束されてしまい、有効な反撃ができません。しかも巨大な砲兵火力(理想的には戦術的突破正面15kmから30kmにわたって240門/km以上の砲兵密度、さらにカチューシャの一斉射撃効果も加算される 連合軍の数倍に相当)とドイツ軍の野戦レーダーシステムもものともしないソ連空軍の地上攻撃がドイツ軍の防御縦深全域を麻痺させますから、ドイツ側はソ連軍の作戦機動群が補給限界に達して動きが鈍るまでなす術もなく眺めているしかありません。
戦間期の蓄積と1941年の大敗以降の熱心な研究によって育った新ドクトリンは長い準備と試行錯誤の時間を経て1944年になって本格的に実施され、それはソ連軍のみがたどり着いた「機動戦の正解」でした。 しかし、ドイツ軍の高級指揮官の中からは、その脅威を本質的なものとして捉えた人物はついに終戦まで現れません。「全縦深同時制圧」「作戦機動群」といった独特の概念に象徴されるソ連軍ドクトリンに相当するものは連合軍にもありませんから、このドクトリンへの対抗策立案は冷戦時代のNATO軍に大きな宿題として引き継がれることになります。
4月 30, 2008
· BUN · 18 Comments
Posted in: 機動突破作戦の変遷, 陸戦
18 Responses
ささき - 5月 10, 2008
「後方からの一撃」「遮二無二突っ込む敵はかえって御しやすい」「全縦深同時制圧」「冷戦後の課題」…なんだか朝鮮半島で1950年頃に起こった出来事を連想してしまいました。
BUN - 5月 10, 2008
本当かどうか何とも言えませんが、スターリンが金日成に「戦車の用法を誤っていないか?」と電報を打ったの打たなかったの、という話もありますね。
はじめまして - 9月 14, 2008
ソ連軍のドクトリンって簡単に言えば「両肩」が邪魔になるなら「両肩」ごと粉砕すればよいと言う発想なんですね。
兵力も機動力も少ないドイツ地上軍の対抗策を後知恵で考えても・・・
コンクリートで強化された小要塞群を縦深をもって配置させて「両肩」の生存率とキルレシオを高め、
戦車/突撃砲部隊は各軍の予備部隊として旅団単位で火消しに飛び回るぐらいしか思いつきません(-_-;
BUN - 9月 14, 2008
いらっしゃいませ。
そうですね。
こんなことを考えるとき、「小要塞群を縦深をもって配置」「旅団単位で火消しに飛び回る」というようなことが言葉の上だけでなく、現実に何がどんなふうに動いて何をするんだろう?と詰めて行くと面白いのではないかと思います。
たとえば敵戦車隊に突破されそうになったら、陣地の指揮官は誰に電話するんだろう、といった疑問から色々なものが見えてくるんじゃないかな・・・と。
はじめまして - 2月 9, 2009
第一次大戦中の東部戦線帝政ロシアの「ブルシロフ攻勢」も同じですね。
多正面同時突破はこのころ確立された戦術では?
ちなみにブルシロフは革命後、赤軍に奉職したそうです
BUN - 2月 10, 2009
はじめましてさん
おっしゃる通り、赤軍の陸戦理論は確かに第一次世界大戦と地続きです。
そして戦後に機動戦理論に加えられた「航空」もまた第一次世界大戦に源流がある、というお話をそのうちにやりたいと思います。
暴論 金太郎 - 2月 9, 2012
確かアイゼンハウワーも似たような戦略観を持っていたと思う。敵の数倍の戦力で全戦線で一斉に攻勢を仕掛けるのが唯一の負けない戦略だとしても、圧倒的優勢者による攻勢が戦略と呼べるのか。
強者にけして負けない戦略があったとしても、基本的に戦略とは弱者の知恵ではないのか。衆寡敵せずを覆したのが、ナポレオンであり、緒戦のドイツ軍だったのでは。大敵の弱点を衝き、予備戦力の最大投入時に側面から攻撃してバランスを崩し、大敵を倒すのが、戦いの技なのではないでしょか。
ヤマザクラ - 2月 9, 2012
ソ連の軍事理論は「全戦線で一斉に攻勢を仕掛け」れば勝てるというような原始的なものではないでしょうし、おそらくBUNさんもそういう趣旨では書いておられないように思います。
1942年にスターリンが全戦線での総攻撃を主張した際にジューコフら赤軍将校は疑念を表明していますし、独軍のバルバロッサ作戦なみの全正面での同時攻勢は、ソ連軍では大戦末期の1945年くらいしか見当たらない気もします。
暴論 金太郎 - 2月 10, 2012
全戦線ではなく比較的限定された戦線で攻勢を掛けて、突破正面を確実に拡大するとしても、アラメインのロンメルがモンゴメリーにされたように他地点に強力な反撃を加えられれば、予備戦力がなければ対応できません。
結局、ソ連の対戦後半の戦いが成功したのも、圧倒的な戦力を背景とし、包囲されないように戦線の突出を極力つくらない保守的な戦略によるものではないでしょうか。
バルジ戦も突破正面両脇に歩兵や降下猟兵部隊を結構厚く配置していますが、多くの戦史家が指摘するように全般的な兵力の劣位、敵制空権下での作戦、燃料の欠乏といったバストーニュー以外の要因のほうが敗戦の大きな要因だったんじゃないでしょうか。
突進を優先させるか突破正面を拡大確保するかは極めて微妙なバランスやタイミング、彼我の戦力比、奇襲効果等の条件が絡む問題で、一概にどちらかに重点をおけばいいという問題ではないように思えます。
むしろ、旧ソ連の戦略で価値があり今でも対米戦略として価値あるものは、潜水艦隊や戦略ロケット軍等の対米劣位に対抗する海空のもののように思えます。
そらたか - 2月 12, 2012
ソ連軍のみがたどり着いた「機動戦の正解」についてドイツ軍がその脅威を本質的に理解していなかったのは、それがドクトリンとしてではなく、その場その場で計画される戦略とか作戦の一つと考えていたのかなと、漠然とですがそう感じました。
シダー - 2月 15, 2012
そらたかさんの指摘がいい感じですね。
「どういう状況を準備するか」がドクトリンの役目で、そのための準備に適切なリソースを配分できたから、「正解」を実行できたのでしょう。
それを踏まえると、暴論金太郎さん的なとらえ方をしたのが当時のドイツ軍だという気がします。
暴論 金太郎 - 2月 15, 2012
なるほど。
当時のドイツのドクトリンは日本同様、攻撃一辺倒ですから、守勢に回った段階で現実との齟齬が大きくなったんでしょう。山本七平流に言えば、ドクトリンや基本戦略が空体語化(撤退、転進等)したんでしょうね。
ただ、戦略が万能のものでなく戦場の偶然性に支配されるとしても、やはり一般的法則として蓋然性を基盤としたものとして必要でしょう。
ww1ではww2と違いドイツは両面作戦に耐えて最後まで国土を結果として守り抜きましたが、その辺に両大戦の指導部の戦略への造詣度の差が現れていると思います。
そらたか - 2月 15, 2012
>シダーさん
ありがとうございます。
ドクトリンと戦略(作戦)との間での勘違いについて少し頭の中を整理してみました。あくまで想像ですが、
・ドイツ側は「ドイツ軍の戦線をしゃにむに突破するために犠牲を覚悟で大量の部隊を手当たり次第に投入する、第一次大戦に連合軍が行ったような飽和攻撃をやってきた」と分析しており、ドイツ軍は優秀な戦力を持っていたが、身も蓋もない物量作戦によってやむなく消耗し、敗れたと結論していた。
・一方ソ連は「ドクトリンで決められている、第一陣でドイツ軍の戦線をこじ開け、第二陣で反撃拠点となる両肩をドイツの予備兵力ごと押さえ込み、ドイツ軍の反撃手段を無くした状態にしてからとどめとして無人の大地を作戦機動群で蹂躙するために」必要な兵力を集めてきて、それを実行した(その結果作戦は成功した)。
ということなのかな、と。
第18砲兵師団のようなソ連のドクトリンを研究した例もあるのに、機動戦の分野ではソ連に完全に追い抜かれ、連合軍にも頭一つ超された状態で終戦を迎えてしまったっぽいのは少し残念ですね。
そらたか - 2月 15, 2012
読み直したら「第一次大戦に連合軍が行ったような飽和攻撃」って言葉自体「有史以来行われてきた大国による数の暴力」って内容で、自分も本質見えてないなあと気づいてしまった次第です。はずかしい。
暴論 金太郎 - 2月 16, 2012
ww2後半のソ連は英米の大陸侵攻の遅れにしびれを切らしていましたから、そんなに急いで前進する必要がなかったし、下手に突進してハリコフ戦みたいに逆包囲されることを恐れてもいたのでしょう。
しかし、参謀本部がヒトラーが口を出さなかったら1944年以降、東部戦線をどのように維持できたかは疑問です。マンシュタインがソ連軍を押しとどめられたでしょうか。確かに小生(古っ)もマンシュタインの能力と人格に疑問を抱いています。というか過大評価されていると思います。
意外とロンメルがチタデレ作戦を指揮したら勝っていたかもしれません。少なくとも、両肩にあたる堅固な防衛線に頭から突き当たるようなベタな作戦は立てなかったでしょう。マンシュタインのセバストポリやバルト沿岸の作戦も優等生的ですが、かなり鈍重さを感じます。
ロンメルはその点、偉大なる戦術家と過小評価されているんじゃないでしょうか。ww1以来の浸透戦術の権化ですが、現地に即しているので防衛戦もきっと現実的な優秀な指揮をしたことでしょう。ノルマンディで水際防衛を主張したことなどにその防衛への慧眼が伺われます。
いずれにしてもww1との最大の違いはソ連が工業化により恐ろしく強大で近代的な陸軍国家となっていたということだと思います。シダーさんがいうとおり、現状に即し資源配分を適切に行うことが戦略の基本だと思います。ただそのリソースには作戦立案能力も含まれているので、そこに奇策や起死回生策としての戦略が成功しうる科学的根拠もあるのだと思います。
朝比奈竜兵 - 2月 19, 2012
コメントが白熱しているようなので、ちょっと一息的に自分も一言。
ドイツ、ソ連両軍の兵力がまったく同数で対峙した場合(この想定自体が幼稚な発想ですが)、このソ連流の攻勢ドクトリンを簡単に解釈すれば、ソ連軍は絶対に攻勢には出ない、といった単純な答えでよろしいのでしょうか?
この状況なら、ドイツ軍の場合、迷わずガソリンが尽きるまで前進、日本軍なら、食料が尽きても前進、フランス軍は命令系統が硬直化しているので、攻勢が上手く行かず、イタリア軍は戦意が乏しいので、攻勢の準備すら終わらない、といったところでしょうか?
Mk - 12月 24, 2015
勝てそうな場合は攻勢を選択できるが負けそうな場合は攻勢を迫られる、もしくは攻勢に賭けざるを得ない。って事ですかね?
まげもの - 7月 15, 2017
5年前のコメントに何をと思われるかもしれませんが……
戦略とはそもそも相手との戦争をどのように終わらせるか、どうすれば有利に決着できるか?そこに帰すると思うのです
たしかに今日者が弱者に対して物量や質で優勢な状態で攻め続けるのは我々から見たら過剰に見えるのかも知れません
しかしそこには戦争という我々の知らない常識があり、狂気が正気に支えられて話し合いをしている時代だったでしょう
ですので、きっと彼らは以下に弱者に被害を出さないで勝利できるか、戦争を終わらせて次の戦争に備えられるか、というしこうがあったのではないけとおもいます
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