アルメデレール以前 番外編3 (ブリストルの従姉妹)

 番外編第三回はドイツ編です。ドイツ編だからといって当たり前にフォッカーやアルバトロスの話をしても面白くないので、あまり紹介されることのない複座機を採り上げます。続けて読んで戴いている方はお察しの通り、第一次世界大戦の軍用機で複座戦闘攻撃機が単座戦闘機以上に重要な役割を果たしていることを紹介したいのですが、単純にその代表格であるハルバーシュタットCL2が実にカッコいいという話でもあります。

 ハルバーシュタットCL2は1917年7月から前線に投入され始めた、偵察観測用のC型機をよりコンパクトにまとめ上げた複座戦闘機です。前方固定機関銃と後席の旋回機関銃で敵戦闘機を撃退し、友軍の偵察、観測機を掩護することがその任務です。1917年から前線に投入され始めた複座戦闘機としては「最強の複座戦闘機」ブリストルF2の名が浮かんで来ます。両者はライバルといえばライバルですが、その護衛任務から、お互いに空中戦で対決する機会はあまり無かったようです。かたや高速を身上とする偵察機色の濃い複座戦闘機、かたや格闘戦をも辞さない軽快さが勝負のコンパクト複座戦と、その性格も微妙に異なりますが、両者には不思議な縁があります。

 ハルバーシュタット社は1912年に設立された会社ですけれども社名をハルバーシュタットとしたのは開戦後の1914年9月で、それまでの社名はドイツブリストル航空機製造株式会社です。ハルバーシュタットはドイツとイギリスの合弁会社だったのです。これは第一次世界大戦前の航空機製造業界がお互いに販路を広げるために依存しあっていた事情を反映していますが、奇しくもイギリスとドイツの代表的複座戦闘機が血縁関係にあるという面白い事実でもあります。ですから初期のハルバーシュタット社(ドイツブリストル社)はブリストル設計のボックスカイトやプライアー単葉機をドイツ国内で生産販売して自社の技術力を磨き、やがて独自設計の機体を製作するようになります。

 技術的ルーツをイギリスに持つハルバーシュタットでしたが、CL2にはもう一つイギリス起源の特徴があります。それは後席の銃座です。この銃座はフランスが国産化して多用したソッピース ストラッターが装備していた銃座のコピーです。環状のレールによって機関銃の取り回しが良く、射界の広さと急旋回時に後席乗員が機体から放り出されないように保護する機能を兼ね備えた銃座はハルバーシュタットCL2の長所でしたが、これもイギリス起源だった訳です。

 こうして見るとブリストルF2より低速で、ストラッターの銃座を装備した複座戦闘機がなぜ重要視されるのか訳がわからなくなって来ますが、1917年春頃の連合軍主力戦闘機だったニューポール17と速力でほぼ互角(172km/h対165km/h)で上昇力も比較的優秀(メルセデス搭載型のフォッカーD7と4000mまでの上昇時間が同等=31分)で前方固定武装はニューポールと同等または二倍(二挺装備機)でしたからそれなりに手強い戦闘機に仕上がっていたことは疑えません。

 もともと複座戦闘機であるハルバーシュタットCL2は偵察、観測機の支援目的で護衛飛行隊に配備されましたが、ドイツ軍の評価は複座戦闘機としての適性(これはフランス軍がより高く評価しています。戦争末期にフランス軍の複座戦闘機が増強されるのはこのためです。)よりも、本機を地上攻撃に使用した場合の優秀さに注目したものでした。

 往々にして扱い難い機体が多かった第一次世界大戦軍用機の中で安定性、操縦性が良くバランスした機体であり、加えて戦闘機としての機敏さが対空射撃を避けながらの地上攻撃に適していた点がドイツ軍の近接航空支援構想に重なったようで、ハルバーシュタットCL2装備の護衛戦闘飛行隊は1917年夏の実戦を経て、本来の偵察、観測機の護衛任務よりも近接航空支援任務により重きを置くようになります。

 こうして1917年後半のカンブレー戦を迎えます。この戦いは連合軍とドイツ軍が共に前線での地上攻撃に注力した戦いです。イギリス軍は戦闘機による地上銃撃戦術を多用し、ドイツ軍はハルバーシュタットCL2を始めとする複座戦闘機による地上銃撃と爆撃を本格的に実施します。こうして護衛飛行隊は攻撃飛行隊に改変されることになります。残されたハルバーシュタットの写真はこの頃のものが多く、そこには色々な装備が写り込んでいます。

 胴体上面には各種信号弾、側面にはドイツ式の棒付き手榴弾を多数固定できるラックが取り付けられ、さらにパイナップル型の手榴弾に安定翼を付けたものを操縦席内部に積み込んでいる風景も見られます。一見すると「第一次世界大戦の航空攻撃はかくも原始的なものだった」と思えてしまいますが、よく考えてみればその風景はもう戦争も終盤に差し掛かった1917年後半から1918年にかけてのことです。まともな爆弾もあれば、投下装置もあり、第二次世界大戦当時と原理的に変わらない光学式爆撃照準器も存在した時期です。

 こうした疑問の答は当時の近接航空支援の特徴だった超低空攻撃にあります。地上攻撃機は敵戦闘機を警戒するほかに、高射砲の射撃を警戒しなければならないことは当然ですが、戦闘たけなわの前線上空には敵味方の砲弾が飛び交い、高度1000m以上では重砲弾が切り裂いた気流の乱れによって安定した飛行ができなかったとも言われています。それ以下の高度では地上からの機関銃射撃の有効射程に入りますから、射撃機会を減らすために更に低高度へと降りて行くことになり、攻撃の多くは100m前後の超低空で実施されていたのです。

 そんな超低空攻撃では普通の爆撃照準器は役に立たず、まるで家の二階から植木鉢を落とすような攻撃が実施されています。およそ飛行機には似つかわしくない集束手榴弾(独映画「スターリングラード」でT34に向けて投げるアレです。)までが積み込まれているのはそうした事情です。そんな攻撃を臨機の目標に対して機関銃弾と手榴弾が尽きるまで繰り返すのが当時の近接航空支援です。丘の向こうから突然現れては機関銃弾を浴びせ、上空をパスする時には手榴弾をぶつけて来る地上攻撃機にとっては菱形戦車でさえ容易に撃破できる大きな標的に過ぎません。カンブレー戦後に設けられたイギリス軍の調査委員会はドイツ軍の反撃が成功した大きな理由の一つにこうした地上攻撃が組織立って実施されたことを挙げ、その後、イギリス軍の戦闘機に機関銃の増備と爆弾装備が追加されることになります。

 ところがこうした攻撃には地上軍も必死で反撃しますから、当然のように損害はかさみ、その対策としてユンカースJ1のような装甲攻撃機が登場するようになりますが、人員、機材ともに十分な補充が困難だったドイツ陸軍航空隊にとって、極めて有効ではあるけれども損害の大きい近接支援作戦は馬鹿にならない重荷です。そのために航空優勢をほぼ失った1918年夏以降、地上攻撃機部隊はその勢力を大幅に減じてしまいます。ハルバーシュタットCL2がその役割をユンカースJ1に引継ぎ、さらに敵戦闘機の跳梁でユンカースが自由に飛べなくなった戦争最後の数ヶ月に地上攻撃任務を担ったのは対戦車銃撃を行うヤーボと化したフォッカーD7です。
 どこかで聞いたような話で、いったいそれはいつの時代の話なのか、何ともわからなくなって来ます。

3月 24, 2010 · BUN · 2 Comments
Posted in: ドイツ空軍, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦

2 Responses

  1. マンスール - 4月 12, 2010

    ハルバーシュタットCL2は、ちょっとドイツ機らしからぬ小粋なデザインで、大好きな機体です。手榴弾をしこたま積んだ写真はよく見ますが、これまでは、当てずっぽうに放り投げていくんだろう位にしか考えたことがありませんでした。相手の顔色が分かる程の超低空まで降り、狙いをつけて塹壕に爆弾を放り込んでいくとは、恐ろしや。
    1914年時点では大方の目には海とも山ともつかぬゲテモノだった代物が、わずか数年のうちに、今回話題の小型機から、R級やO/400のような巨人機まで、揃ってその威力を見せつけるようになった時に地上にいた人間の受けた衝撃は、ちょっと想像がつきません。掃射や爆撃を受けた兵士は、機速が遅い分、延々と恐怖を味わっていたんでしょうか。

  2. BUN - 4月 12, 2010

    マンスールさん

    小説「西部戦線異状なし」には歩兵飛行機が段々と深刻な脅威になってきたことが簡潔に描かれています。この小説は相当にリアルで、ああ、あれはこういう事を語っていたんだな、と後から納得する部分がありますね。
    塹壕線の第一線を貫いたり貫かれたりするのは比較的簡単だったとか、問題はそこを維持できないことだったとか、あとから、そうだったのか、と思う部分が沢山あります。

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