アルメデレール以前 12 (前線と後方の対立)

1915年にニューポール11を実戦投入し、翌年には改良型のニューポール17を送り出し、さらに1916年中に高速戦闘機スパッド7をも完成させたフランスが、どうして爆撃機だけはいつまでたってもファルマン、ヴォワザンといった旧式機で占められていたのか、全く不思議です。この新機種開発の不均衡はフランスが軍用機開発で抱えていた、ある大きな問題を反映しています。それは前線(陸軍総司令部)と後方(陸軍省、政界、産業界)の対立です。

1914年8月の開戦時からフランス国内では早くもドイツ国内への爆撃を求める声が上がっています。まだファルマンがフレシェットを投下していたような時期でしたが、国土を蹂躙されたフランスでは、とにかく手早くドイツの国内に爆弾を落として報復したいとの欲求が高まり、戦略爆撃の実施が陸軍のみならず政界、産業界からも強く叫ばれるようになります。1914年秋に爆撃飛行集団が編成されてからも、フランス国内の戦略爆撃論は衰えず、500機の大集団でのドイツ国内工業都市爆撃が提唱され、軍用機生産計画も爆撃機に重点を置くようになってきます。

当たり前といえば当たり前ですが、自国内に大きく攻め込まれたままドイツ軍に居座られているフランス国民は戦争の行方についてあまり明るい展望を持っていません。指導的な階層の中にもマルヌ戦以降の膠着状態を打開するには自国の陸軍は実力不足ではないかといった無力感と、ドイツ陸軍の精強さへの恐れがフランスの「銃後」に蔓延していました。「地上戦ではどうにも決着が着きそうにないぞ」と口には出さなくとも誰もが思い始めていたのです。

そうした不信と絶望のはけ口が戦略爆撃論でした。ファルマン、ヴォワザンの後継機として登場したブレゲーミシュランという地味なプッシャー型式の爆撃機がありますが、この機体が「ミシュラン」を名乗っているのは他ならぬミシュラン兄弟が自主的に新型爆撃機の開発に名乗りを上げたからです。当時、有数の企業家であり政治的発言力を持っていたミシュラン兄弟は新型爆撃機による戦略爆撃の提唱者でした。けれどもこの機体はちっとも有名ではありません。操縦が難しく、爆弾搭載量も不足している低性能な駄作爆撃機だったからです。こんな飛行機が出来上がってしまったのは、とにかく現有機種と作戦に対する批判的姿勢は強かったものの、フランスの航空工業は爆撃機としてどんな飛行機が求められているかを知る術がなかったからです。「何を作ればいいのか、よくわからない」のが航空工業界の実情でした。

産業界で戦略爆撃論者の代表格がミシュラン兄弟なら、知識層からの戦略爆撃論の代表はコレージュドフランスの教授だったシャテリエでしょう。彼は地上戦によるドイツ軍の撃滅は不可能だと断言します。そして戦争を勝利に導き、しかも早期に終戦に持ち込む唯一の手段は爆弾搭載量300キロから400キロの爆撃機、1000機によってライン川流域の工業と輸送網、その他あらゆる戦略目標を昼夜の別なく爆撃し続けて完全に破壊することだと主張します。ほとんど第二次世界大戦規模の戦略爆撃計画ですが、当時のフランス航空工業が全力でかかっても1000機の爆撃機部隊を維持することはできません。けれども実現可能かどうかはさておき、このような派手な意見は沈滞ムードのフランス国内で相当な力を持つようになります。「とにかくドイツに報復を」という声が戦略爆撃論の基盤なのです。

そんな戦略爆撃論の盛り上がりに対して実際に戦争を戦っている陸軍総司令部も、マルヌ戦後の約1年間は国民士気の鼓舞を重視して爆撃機の増強に同調していましたが、1915年秋にはその態度を大きく変えます。陸軍総司令部の考えは、ドイツ国内への戦略爆撃を大規模に実施するならば、当然、ドイツは報復爆撃を実施するだろうというものです。そしてフランス軍にとってドイツの首都、ベルリンは前線のはるか彼方にある手の届かない場所ですが、ドイツ軍にとってフランスの首都、パリは最前線から目と鼻の先にあります。ライン川流域の工業地帯爆撃と引き換えにパリを灰にされてしまったら敵国民の士気を崩壊させるどころか、フランス国民の士気の方が先に崩れてしまいかねないとの判断がフランス国内の戦略爆撃論を押さえ込んでしまったのです。

そして1915年11月に陸軍総司令部が提出した軍用機生産計画は戦闘機隊の増強と引き換えに爆撃機隊の縮小を行い、さらに800機もの多目的複座機を要求するものでした。戦闘機の増強は初夏から飛び回り始めたフォッカーE型機への対抗策で、800機もの多目的複座機もまたドイツ軍が効果的に用いた武装複座機に対応したものです。前線で今すぐ必要な機種はまさにそうしたものだったからですが、この要求に陸軍省は納得しません。爆撃機隊の縮小は政界、産業界を納得させられない上に、フランス陸軍省は1914年秋から軍用機開発をその用途に特化した専用機へと向かわせていたからです。ニューポール11などはこうした方針から生まれた「空中戦専用機」です。

もともと爆撃機に積極的な興味を持っていない陸軍総司令部と爆撃機を戦略爆撃用の兵器として考える陸軍省との間で、ファルマンとヴォワザンは相変わらず生産され続けていました。前線の乗員達からは後方が無防備で銃撃を受けると燃料タンクから漏れ出したガソリンが熱をもったエンジンに降りかかって簡単に燃え上がるヴォワザンや、構造が脆弱でとても軍用には適さないファルマンを呪う声が上がっていましたが、陸軍省との関係が深く、長期契約で安定した業績を上げていた、平たく言えば陸軍省と癒着していた両社はそうした評価に耳を貸すことは無く、ファルマンに至っては「当社の爆撃機に対する批判など聞いたことも無い」と言い切っています。ほんの目と鼻の先で戦争をしている陸軍総司令部とパリの陸軍省との間で、戦訓が共有できていないという奇妙な事態が1915年一杯続いてしまうのです。

どうしてこんなことが起きてしまうのか、後世から眺めるとまったく不思議です。日本海軍なら軍用機の開発要求は軍令部が技術部門の協力の下に要求するものなのに、フランスでは陸軍総司令部が軍用機開発で蚊帳の外に置かれてしまっています。

 その理由をひと言で説明するとしたら、第一次世界大戦初期のフランス陸軍総司令部は飛行機の運用についてまだまだ不慣れで定見も無く、むしろ後方の航空機工業を含む産業界の方に専門家としての権威があったからでしょう。産業界とそれに結びつく政界、そして陸軍省は軍用機開発について陸軍総司令部と連携する必要をあまり感じていなかったようです。陸軍省内の航空担当部署と陸軍総司令部間での人的交流もありません。さらに国内の戦略爆撃論と陸軍総司令部の陸戦重視方針との対立もその断絶に輪をかけています。こうした事情でフランス陸軍は前線で役に立つ、本当に必要な機種が入手できないまま長い月日を過ごすことになってしまったのです。

1月 18, 2010 · BUN · 4 Comments
Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産

4 Responses

  1. まなかじ - 1月 18, 2010

    デュランヌARとかブレゲー14とかサルムソン2とかは、爆撃機というより万能複座機の線に乗っているんですね。
    まだまだ先の話になりますけど、双発重爆コードロンRを翼端援護機にして、ブレゲー14でドイツ本土爆撃に出るなんて、やりきれない作戦になってしまう謎も解かれるような予感が。

  2. BUN - 1月 18, 2010

    まなかじさん

    ようこそいらっしゃいました。
    フランスの戦闘機隊はドイツの武装複座機をいたく尊敬しているんです。
    ああいうのが我が軍にあれば俺達は自由に飛べるのに、と。

    次回は少し派手めに「ブラッディエイプリルなんてどうでも良かった」といった話を勝手に始めようかと思っています。

  3. ねこ800 - 2月 1, 2010

    なんかすごい話ですねえ。

    自分の商売が第一つうのはわからなくもないんですけど、

    ドイツ軍がパリになだれ込んできたらいくら陸軍と癒着しても意味がなくなると思うんですが、そうは考えないんものなんでしょうねえwww

  4. BUN - 2月 2, 2010

    ねこ800さん

    商売が第一というよりも、最初の方で紹介したように多かれ少なかれ良家のどら息子だった創業社長達の自負というか、そんなものが感じられますね。第二次世界大戦の頃とはその辺りで雰囲気が違います。

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