アルメデレール以前 10 (「戦闘機隊」の誕生)

 前回はフランス軍の何が変わったか、を紹介しましたが、今回はフランス軍の変貌に対応してドイツ軍もその航空戦ドクトリンを大きく転換したというお話です。 戦争は相手のあることですから、フランスの空軍物語の中とはいえ、ドイツ軍の話もちょっとしなければなりません。

 ベルダンで敵の制空権下での地上戦を体験したフランス軍はその苦境を脱するために単座戦闘機の集中使用を開始して航空戦の様相を一変させます。それまで空中戦にしか使えず、爆撃も偵察もできない不便きわまりない兵器で、要所の防空程度の任務しか無かった単座戦闘機を集中使用することで敵の航空兵力のみを直接撃破することで制空権を奪回することに成功したフランス陸軍航空隊は戦闘飛行隊の拡充につとめ、次の戦場でもベルダンと同じく司令部直轄の戦闘機集団を投入しようと準備を開始します。

 フランス軍が1916年2月のベルダン戦で約1ヵ月の短期間で単座戦闘機の集中投入ができたのは、半分以上、偶然でしかありません。フランス陸軍総司令部は戦闘機隊の増強を1915年夏から要求していましたが、これはあくまでもドイツ軍のフォッカーE型機に対抗することが主体で、空中戦でフォッカーを圧倒できるニューポール11「ベベ」も航空兵力の拠点となっていたナンシー防空に用いられた他は各地区に分散配置されていました。そして「べべ」の由来となった「ベベ=子供」ではない複座型ニューポールも多数用いられていました。

 1916年初頭にドイツ軍が単座戦闘機フォッカーEIをたった40機程度しか配備せず、ベルダンへもわずか21機を投入しただけであったように、フランス陸軍航空隊も1916年初頭には大した数の単座戦闘機を持っていません。1916年初頭のニューポール11「べべ」は90機が配備されていただけです。それでもモランソルニエ単葉機を合わせればフランス軍の単座戦闘機は100機を超えていますが、これは当時、フランスの軍用機生産がドイツを上回りつつあった結果に過ぎません。もともと機数に余裕があればこそ、ベルダン上空の制空権奪回作戦に「空中戦専用機」を大量に投入できたのです。

 フランス陸軍航空隊にとって「次の戦場」は1916年7月に開始されたソンムでの連合軍攻勢です。今度は攻勢作戦ですから戦いの前に航空兵力の大量集中が行われ、ベルダン地区から航空兵力の引き上げが開始されます。1916年6月のフランス陸軍航空隊は西部戦線全体に1120機の第一線機を配備していましたが、ソンムでの攻勢にはそのうち201機が投入されます。集中という割には少ない印象を受けますが、当時の航空兵力はドイツ軍でもフランス軍でもその大半は前線部隊に張り付け配置された偵察機と砲兵観測機でしたから、機動運用できる兵力はまだこの程度でしかありません。けれどもソンムの戦場にはイギリス軍も参加しています。イギリス陸軍航空隊は185機を投入しましたから、同地区にあったドイツ軍機129機のおよそ三倍の兵力があったことになります。

 しかもソンム地区に展開していたドイツ軍の単座戦闘機はたった16機でしかありません。フランス軍にはニューポールがあり、イギリス軍にもプッシャー式ながら小型で軽快、前方機関銃を持つDH2やFE2がありましたからドイツ陸軍航空隊はソンム地区では裸も同然です。それでも当時の会戦準備はかなり大っぴらに行われていましたから、ドイツ軍偵察機は1916年2月から3月にかけて連合軍がソンム地区で攻勢の兆候を示していることを報告し始め、6月には大規模攻勢の準備が完了しつつあることを報告しています。

 ドイツ軍はこの兆候に対応して戦闘機隊の増強を行うべきでしたが、それができなかった理由としては、ベルダン地区の航空戦が終息していないことと、危険を告げる航空偵察情報に対して参謀総長だったファルケンハインがあまり信用を置いていなかったことが挙げられます。ファルケンハインは参謀本部内で航空関係の組織拡充を認めなかったように、航空に関してはどこから見ても鈍感な19世紀的凡将でしたから彼の下では航空将校達は単なる技術的アドバイザーとしての発言権しかなかったのです。後になってソンムで苦戦し始めてから、理不尽にも事前情報を提供しなかった罪で航空関係将校達は査問にかけられますが先に紹介した通り、2月から報告され続けていた事実が改めて確認されるだけでした。

 攻勢開始と共にドイツ陸軍航空隊は連合軍戦闘機の哨戒飛行によって戦場から一掃され、地上軍の歩兵部隊は低空飛行する連合軍機の銃撃に曝されてしばしば恐慌を起こし、観測機の活動を制圧されてしまった砲兵は有効な間接射撃ができなくなります。しかも悪いことにはドイツ軍戦闘機隊にはマックス インメルマンは6月に戦死してしまい、オズヴァルト ベルケもその戦死を恐れる皇帝ヴィルヘルム2世の命によって後方に下げられていたので体勢立て直しのリーダーを欠いており、7月、8月はドイツ陸軍航空隊にとって暗黒の日々となります。

 ただドイツ軍にとって唯一最大の救いは連合軍爆撃機の不振でした。戦闘機部隊は精強だったものの、爆撃機部隊が相変わらずのヴォワザン、ファルマンで装備された旧式装備のまま放置されていた点です。多少の改良は行われ、後継機と見做されたブレゲーミシュラン(相変わらず後方無防備のプッシャー式爆撃機)だったことで、友軍の制空権下で活動しても対空砲火によって容易に捉えられ、ドイツ軍戦闘機に奇襲されればひとたまりも無い脆弱な存在でしたから、爆撃、観測部隊の士気は上がらず、しかも地上戦闘に直接関与するための近接支援航空戦術が十分に確立されていなかったこともあって、せっかくの圧倒的な航空優勢を利用できません。空陸一体の突破作戦という概念は未完成だったのです。

 航空不振のまま苦戦を続けるドイツ軍では1916年8月29日にようやくファルケンハインが更迭され、ルーデンドルフが後任として登場します。ルーデンドルフは航空兵力育成の支援者であり推進者でしたから航空関係将校は一転して活気づき、その影響は彼が直接に関与する、しないに関わらず、すぐに現れます。変化はまず編制上の改革で始まり、今まで攻勢用の多目的機で編成されていた司令部直轄の戦闘航空集団「Kagohl」が縮小され、前線の地上部隊支援を主任務とする爆撃任務の飛行隊群「Kasta」(kampfstaffeln)に置き換えられます。そして戦闘機隊にも改革が行われます。

 「戦術家」としての才能にも優れたエース、ベルケが前線に呼び戻されたことも重要な出来事でしたが、編制改革はもっと重要でした。ソンムで連合軍航空兵力に友軍の偵察機、観測機が一掃されたことでドイツ軍は初めて単座戦闘機の集中投入を開始します。戦闘飛行隊群は「Jasta」(Jagdstaffln)にまとめられ、9月中に2個、10月には4個へと編成が進みます。「Jasta」は爆撃や偵察などの当時の軍用機として当然なすべき総合的任務を免除された、敵機との空中戦のみを目的とした単機能の部隊でしたから「Kagohl」のように「Kampf」(戦闘)を冠称せず、地上軍の都合とは無関係に活動できる専門のハンター任務部隊として「Jagd」飛行隊と呼ばれます。この呼称は第二次世界大戦時にも使われていますが、日本語訳に困る「Kampf」(爆撃隊なのに「戦闘」を名乗る)と「Jagd」(戦闘機隊なのに戦闘を名乗らない。地上兵器で「Jagd」を名乗ると機甲科管轄の対戦車自走砲=駆逐戦車になってしまう。そして日本で「駆逐機」と言えばドイツの複座戦闘機になってしまう)の使い分けは第一次世界大戦中の編制にその源があるようです。

 けれどもドイツ軍戦闘機隊は8月末にようやく60機程度まで増強されたに過ぎず、フランス軍の戦闘機隊の優位は揺らぎません。まだまだ「戦闘機」は多数派ではないのです。10月からようやく待望のニューポール対抗機であるアルバトロスDIが配備され、11月頃から本格的に活動し始めて、ようやく性能面での劣勢を挽回できるようになります。こうして空の戦いが友軍の飛行機の活動確保だけでなく、敵の飛行機の活動を許さない状況を作り出すことに努力が注がれるようになったという点で1916年は特別な年となりました。

1月 12, 2010 · BUN · 5 Comments
Posted in: ドイツ空軍, ドクトリン, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦

5 Responses

  1. ヒロじー - 1月 14, 2010

    ご無沙汰しております。
    一年前のWW1ドイツ航空ドクトリンのエントリの、現場の実相がここ数回のお話で具体的に見えてきたような思いです。
    これから17年の血まみれの4月に向けてお話が進むのでしょうか。
    楽しみにお待ちしております。

  2. BUN - 1月 14, 2010

    ヒロじーさん

    ご愛読ありがとうございます。
    今回のシリーズは、
    「前振りが長い」
    「素晴らしくクドい」
    「わかんねえよ」
    と周囲で大不評であります。

    だって、日本語の第一次世界大戦航空戦史が無いんだもの。
    誰もが知ってる通説も定説も殆ど無い話はクドくもなるんです。
    タイトル通りですね。

  3. 椋鳥 - 1月 14, 2010

    >素晴らしくクドい

    それって好評なんじゃないでしょうか。
    Blogのタイトル的に。

  4. ペドロ - 1月 14, 2010

    前回の論説だけ読んでいると「Kagohlなんて組織を新設して集中投入できる態勢を整えるなんて、ファルケンハインは航空戦をよくわかっていた!」などと早計してしまいそうですが、人の評価というものは長い目で見ないとわからないものですね。

    >だって、日本語の第一次世界大戦航空戦史が無いんだもの。

    以前ご紹介いただいた「世界大戦より見たる海上作戦の教条」、緒言だけで頂門の一針でしたが、航空分野ではこれはという洋書を当時の軍部は見つけられなかったのでしょうか?

  5. BUN - 1月 18, 2010

    椋鳥さん

    好評・・・なんでしょうか。

    ペドロさん

    ファルケンハインはどちらかといえばフランス陸軍的に航空を理解していた雰囲気があります。当時としては間違いじゃないんですが、根本的な変革には繋がらない理解なのかもしれませんね。

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