アルメデレール以前 5 (「マルヌの奇跡」)
開戦と共に、あろうことか軍用機生産と操縦教育を停止してしまったフランス陸軍ですが、戦争はそんな後方での見込み違いとはまったく関係なく飛行機を戦いに巻き込みながら進展しています。
フランス陸軍にとっては軍用機生産を停止したことを反省するよりも開戦からこのかたドイツ陸軍の進攻を止めることができず、退却につぐ退却を続けて首都パリからの撤退も考えなければならないほどの戦況そのものが大問題でしたから、今更ベルナールの失策(陸軍中枢では誰も反対しなかったので個人の失策などと言えた義理ではなかったけれども)をなじるよりも、とにかく手に入る限りの飛行機を工場からでも民間から徴発してでもかき集めて航空兵力を維持することが先決でした。
一方、作業者を徴兵されてしまった各工場は作業者の徴兵解除を申請すると共に、新しい労働者を即戦力となる分野から引き抜くことで操業再開を試みます。フランスの航空工業界はこのときの大変な苦労を後々まで忘れません。陸軍の失策が原因で育成した作業者たちを前線で歩兵として殺されてしまい、わざわざ他の分野から高い給与で作業者をかき集めるという苦い体験があったことで、その後に「人件費の上昇」を理由に各社が販売価格を吊り上げた際にフランス陸軍はまともな反論ができず、要求をあっさり呑むことになります。列強の中で一番ケチなフランスで、どんどん量産が進んでいるのに航空兵器価格が上昇している裏にはこんな事情があります。ただでさえうまく行っていなかったフランス陸軍と民間航空工業界との関係がこの事件でますます気まずいものになってしまったのです。
そして地上軍の退却に次ぐ退却で前線の飛行隊への補給も大混乱に陥ります。部品不足に悩む第一線から修理に戻される故障発動機は使える部品を剥ぎ取られた裸の状態で送られるようになり、修理作業はますます困難になります。このために陸軍省は修理発動機からの部品取りを禁止する通達を出して修理作業の秩序回復を試みますが、部品の補給が途絶えたからこそ、そうした行動に走っている前線の飛行隊は、このような手前勝手な通達を平気で行う陸軍省に憎悪の眼差しを向けるようになります。そして陸軍総司令部も国家の一大事にもかかわらず、あまりに官僚的な陸軍省の姿勢を批判的に受け止めるようになり、フランス陸軍航空隊をめぐって陸軍省と陸軍総司令部との間で対立が生まれます。この対立はしばらくすると軍用機の開発や部隊編成にまで及ぶ根深いものへと育ってしまいます。
そんな厳しい状況下でも前線の飛行隊は開戦以来、かなり健闘しています。彼らは偵察任務だけでなく、攻撃任務をも積極的にこなし、ドイツ軍部隊の上から爆弾やフレシェットパケットを投下するだけでなく、メッツの飛行船基地に対する爆撃作戦など1914年という時期にしては眼を見張る働きを見せています。その効果は別としてフランス陸軍航空隊は曲がりなりにも1914年8月の開戦時から阻止攻撃と航空撃滅戦を実施していたことになります。
8月末にドイツ軍がパリに迫るとフランス陸軍航空隊の中枢組織はリヨンへ向けて撤退し、その後にはパリ近郊でまだ細々と生産を続けている飛行機製造工場からの受け入れを担当する人員だけが残されましたが戦闘部隊はパリに留まり、パリ守備軍附属の飛行部隊には民間志願者による飛行隊までが編入されています。この飛行隊にはブレゲー社のルイス ブレゲーも自らの飛行機と共に加わっていましたが、ルイス ブレゲーは9月2日、自ら偵察任務に飛び立ってパリ東方でのドイツ軍の旋回機動を発見報告します。続いてフランス第6軍の航空部隊指揮官 ベランジェ大尉も帰還した部下から同じ内容の報告を受けますが、第6軍の情報担当参謀は航空偵察の結果を信頼せず、その報告を却下してしまいます。しかしこれを重大情報と判断したベランジェ大尉は強引に、かねてから航空に理解を示し気心が通じていたパリ守備軍のガリエニ司令官に直接報告し、パリ守備軍を通じてなんとか陸軍総司令部のジョッフルまで情報を伝えています。この航空偵察情報を得てジョッフルはドイツ軍の機動に先手を打ってその側面を突くことに成功しドイツ軍の進撃を押し留め、一応の勝利を得ます。「マルヌの奇跡」とはこの状況を形容した言葉です。ジョッフルは作戦地図を睨みながら軍事的天才を発揮してその決断を為したのではなく、そのものズバリの航空偵察情報を得て、それに応じて採るべき策を打ったのです。
こうして今まで飛行機の軍事的価値をまったく認めていなかったジョッフルは自分を「マルヌの奇跡」に導いたものが飛行機であることに気づき、潔く持論を翻し一転して航空部隊を賞賛するようになります。そしてこの戦いで9月8日にフランス陸軍航空隊はドイツ軍の軍直轄砲兵の布陣を航空偵察で捕捉して友軍の砲兵射撃を誘導、対砲兵戦で敵重砲兵を撃滅するという成果を挙げている点も見逃せません。敵砲兵の殲滅は陸戦の勝敗を左右する大きな課題です。しかし全てがうまく運んだ訳ではなく、敵砲兵の捕捉は9月3日と9月27日にも成功していますが、このときは友軍砲兵部隊が航空偵察の結果を信用せず、対砲兵戦は実施されません。もともと砲兵のための兵器だったはずのフランス軍用機はその砲兵からもまだ十分な信用を得ていなかったようです。
フランス軍にとって「マルヌの奇跡」をもたらしたのが航空偵察であるなら、ドイツ軍にとってもマルヌでの崩壊を防いだのはフランス予備軍の動きを察知した航空偵察です。結果としてマルヌの戦いは両軍に航空偵察の有用性を思い知らせるものでしたから、航空部隊の価値が正当に評価されたことで、この戦いの直後にフランス陸軍総司令部には航空担当参謀が置かれるようになります。いままで継子扱いされていた航空部隊がフランス陸軍内でようやく一定の地位を得られたのです。それが変革の始まりでした。
12月 17, 2009
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Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産, 陸戦
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