アルメデレール以前 4 (1914年8月に何が起きたか)

 さて4回目にしてようやく戦争が始まります。まだフランス陸軍の飛行船部隊について話していませんし、フランス海軍航空隊をまるごと放り出していますが、そういった分野はいずれ誰かがもっとわかりやすく本にまとめてくれるのを待ちましょう。私は昔の年寄りのように戦争の話が好きなだけなので、自分が話したいことだけ話して、どんどん進めてしまいます。

 1914年8月2日のフランス陸軍航空隊はいったいどれほどの軍隊になっていたかというと、 人員4342人、第一線機は23個飛行隊、合計141機。各飛行隊は13個のモーリス ファルマンを中心とした複葉機飛行隊と主に単葉機を装備する飛行隊10個で構成された、小さいながらもそれなりにまとまった組織になっています。機体を供給する製造元はモーリス ファルマン、ヴォワザン、ブレリオ、ドペルデュッサン、モラン ソルニエ、ニューポール、REP、ブレゲーなど8社に及んでいますが、発動機から見ると80馬力のグノーム製ロータリーと70馬力のルノー空冷列型、ブレゲーが搭載している85馬力のサルムソン水冷星型程度に絞り込まれます。機体の供給元は多彩でも発動機は比較的優秀な3機種に集約されているのがフランス陸軍航空隊の強みです。

 第一線の23個飛行隊、141機が戦闘で蒙る損害を補充するための予備機は136機が準備されサン クリに集結(これ以外に利用可能な予備機が相当数あり)していましたし、各工場にも未納入の完成機があり、8月中にこうした機体を使ってさらに3個飛行隊を追加編成しています。そしてフランスの場合、戦前の航空ブームのお蔭で民間操縦者の層が厚かったことも幸いで、比較的裕福で知力体力に優れた彼らの志願による戦力増強は他国には無い強みでもあります。

 しかし、総兵力141機のフランス陸軍航空隊に対してドイツ陸軍はそれに倍する第一線機を投入して来たのですからフランスとしても軍用機の増強に本腰を入れ、全フランスの航空機関係工場は軍用機増産のために総動員され、発動機工場は拡張が命じられ、自動車産業各社は自社製またはライセンス生産による航空発動機の大量生産体制に組み込まれた・・・と書き出したいところですが、1914年8月に起きたことはちょっと違います。

 1914年8月の開戦と共に航空を担当する陸軍省第12局長ベルナールは戦争の性格を短期決戦と確信していました。ほんの数ヶ月で終る戦争に最大限の陸軍兵力を供給するためにベルナールは最善を尽くし、短期決戦のために最善が尽くされた結果、全ての飛行学校は閉鎖されて新たな操縦者の訓練は停止し、余剰人員は前線へと送られています。特に得難い整備技術者の多くが歩兵の補充要員として前線に送られ、緒戦の混乱の中でその多くが戦死してしまいます。

 そして機体と発動機を生産していた各工場は軍需工場に指定されることもなく、逆に前線の歩兵供給源として作業者を根こそぎ徴兵されてしまい、機体と航空発動機の生産はほぼ停止します。フランスでの軍事航空は開戦と共に要員の教育も機体と発動機の生産も停止されてしまったのです。当然、陸軍からの新規発注は一切停止です。

 陸軍省で軍用機の製造と開発を掌る第12局長ベルナールが自ら選択した飛行学校閉鎖、工場作業者の徴兵によってフランス陸軍航空隊は新たな操縦者と機体の補充を絶たれてしまいます。そしてフランスの航空工業各社はどんな戦略爆撃よりも強力な被害を受けて事実上の生産停止に追い込まれてしまったのです。たとえば戦争前、各分野合わせて5000人の作業者を擁したルノーの工場はわずか1200人へ減員となり、ルイス ルノーの回想によれば「航空発動機工場ではわずか20人が仕掛品を組み立てているだけ」(実際は合計200人程度作業していたと言わる)といった状態で、生産は十分の一程度まで落ち込んでしまいます。そしてルノーの空冷列型と双璧をなしていたグノームの空冷星型ロータリー発動機は開戦前に月産百数十台のペースで生産されていたというのに9月の実績はわずか15台でしかありません。

 結局、8月中に陸軍に納入された新規製造の機体はファルマンとブレリオを中心とした約50機とルノーとグノームの合計40基でしかありません。「熟練工を徴兵した」などというレベルの話ではなく、戦線後方にあった飛行機整備技術者たちの辿った運命と同じく、工場の作業者の中で招集可能な若く活力のある人々を根こそぎ歩兵として前線に送り込んでしまったのです。こうした人々の多くは工場どころか自宅にさえ二度と戻って来ません。さらにフランス陸軍の軍用機開発を担っていたムードンの航空技術研究所もその活動を停止し、勤務していた技術将校たちは原隊に復帰して前線へと送られています。開戦とともに軍用機の研究開発も停止したのです。

 しかしフランス陸軍とドイツ陸軍との間にあった天と地ほどの違いは、軍中枢が持っていた戦争への見通し(ドイツもそれほど違わない)と重要な部署にあったわずかな人々の航空に関する理解の差でしかありません。別にフランス陸軍中枢の気がふれていた訳ではなく、こうした決断は短期戦を想定する限りは合理的だったのです。むしろこの戦争が短期で終結するという確信がいかに強力だったかを物語っているとも考えられます。けれども、もしこのような混乱が生じなかったら、フランスの軍用機生産は年産1万機の水準に数ヶ月で達していたでしょうし、発動機生産もそれより容易に増加していたでしょう。グノームやルノーの発動機生産が開戦前にそれぞれ月産百数十台程度の実力にまで発展していたのですから現実味のある話です。

 フランスには急速増産を行えるだけの実力を持つ航空工業と、航空兵力増強の最初の一波には対応できる数の民間操縦者達がおり、航空戦ドクトリンは偵察に留まらず、爆撃、戦闘にまで及ぶ包括的内容で策定されています。そして軍用機が装備すべき攻撃兵器も既に用意され、陣地攻撃用の爆弾と人馬殺傷用のフレシェットパケット(長さ20センチ程度金属製の短い矢でこれを詰め込んだパッケージを低空で投下する。量産はルノーが担当し大量生産中)は量産されていましたからフランス軍の攻撃的航空戦を妨げる要素はありません。

 けれどもこれらの要素に恵まれながら、何一つ満足に利用できなかったのが第一次世界大戦開戦時のフランス陸軍です。もしフランスが圧倒的な航空兵力でドイツ陸軍航空隊の活動を許さず、なおかつ優位にあった爆撃機兵力でドイツ陸軍の機動を妨害していたら、1914年秋の戦争はどうなっていたでしょう。「マルヌの奇跡」はもう少し別のかたちで発生していたかもしれず、塹壕陣地を築き合うような結末を迎えることなく進攻軍は崩壊し、古今未曾有の世界大戦争は案外年末には終結していたかもしれません。とはいうものの、とんでもない形で始まったフランス陸軍航空隊の戦いはこれからたっぷり4年以上も続きます。

12月 15, 2009 · BUN · 3 Comments
Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産

3 Responses

  1. おがさわら - 12月 16, 2009

    絶句、というかツッコミどころ満載というか。
    このベルナールさんに対する本国での評価ってどんなカンジなんでしょ。やっぱり氏ねが圧倒的なのかなあ。

  2. 出沼ひさし - 12月 16, 2009

    >短期決戦のために最善が尽くされた結果

    短期で見ると正しいことが長い目で見ると???
    別にフランス陸軍に限りませんよね。

  3. BUN - 12月 16, 2009

    このあたりの上手く行かなさ加減というものはフランス軍だけではなくて、ドイツ軍にもあって、「智将」と言われるファルケンハインもその辺りに疎い将星の筆頭格だったりします。独仏のほんのわずかな差が終戦近くまで越えられないギャップとして残ってしまった理由は・・・これからのお楽しみです。

Leave a Reply