アメリカ戦艦の辿った道 5(特異な大統領)
1920年代を通じて「戦艦無用論」に脅かされ、ほとんど戦艦という艦種の廃止につながる軍縮提案に苦しんだアメリカ海軍ですが、1933年に大きな転機が訪れます。今まで絶望的なまでに新規建造を押さえ込まれていた状況が一変し、急速な海軍拡張政策が採用されたからです。この変化の背景には大雑把にとらえてフーバー共和党政権からルーズベルト民主党政権への移行と世界恐慌の長期化、深刻化が存在します。
フランクリン ルーズベルトはそれまでの共和党政権の大統領とはまったく性格を異にする少々変ったところのある大統領です。マハンの著作に強い影響を受け、その解説書まで執筆しようとした海軍論の研究者で、アメリカ海軍協会会員、そして海軍協会誌「プロシーディング」のバックナンバーを書斎にズラリと揃えている自他ともに認める海軍支持者、海軍愛好者であることです。当然素人ながら軍艦の設計についても一家言持っているので大統領就任後の新戦艦建造にあたってはカタパルトの位置にまで口を挟むような、海軍としては痛し痒しで、ありがた迷惑な部分もある、いわゆる「軍艦マニア」です。こうした人物がアメリカ海軍の再軍備を指導したことをまず覚えておく必要があります。
前大統領のフーバーは軍艦に無知な訳ではありませんが、ルーズベルトのような熱狂的な大艦巨砲主義者ではありません。ロンドン会議に送り出す代表団の人選にあたっても「軍艦そのものに異常に執着する海軍士官たち」をできる限り排除しようとするなど、ルーズベルトとは正反対の志向を持っています。そしてフーバーは軍縮政策そのものでは国民の支持を得ていましたが、世界恐慌の深刻化とともに激減する税収に対して財政支出を抑えて均衡財政を重視するその経済政策はまったくの裏目に出てしまい、1929年株価大暴落から3年目の1932年の時点でもはや命運が尽きてしまいます。失業者達から「フーバーを吊るせ」と罵声を浴びる存在に成り下がっていたのです。
そこに民主党の対立候補として登場したのがルーズベルトです。フーバーも海軍艦艇に関係する工事が雇用の安定に寄与するという発想を持っていたものの、軍艦の新規建造を認めなかったのに対して、ルーズベルトはより積極的な政策を採ることを海軍関係者から期待されたのです。しかしそれとは裏腹に1932年11月に海軍支持派の上院議員カール ビンソンとの面談でルーズベルトが示した1933年度以降の海軍予算計画は、1932年度予算からさらに28%削減し、その後も年間3000万ドルを削減してゆくというフーバー以上に厳しいものでした。この計画を聞いたビンソンは驚愕し、今まで「海軍の友人」と考えていたルーズベルトがフーバー以上に海軍を抑圧する計画を提示したことに対して、真剣に対策を考慮し始めます。
ルーズベルトの経済政策といえば日本の中高生でも習う「ニューディール政策」を実施し大幅な財政支出拡大によって需要を喚起するケインズ経済学のお手本のような存在としてイメージされますが、政権に就く寸前のルーズベルトは税収減少に釣り合う財政支出削減で「均衡財政」をめざした点ではフーバーとあまり変りません。その後の経済政策もテネシー河流域の開発事業「TVA」の実施など、名前だけは有名ですが、財政支出の規模は実は大したものではなく、「ニューディール」時代を通じてGDPに対する財政支出の比率は1980年代のアメリカの方が遥かに高いのです。結局第二次世界大戦開戦まで「均衡財政」志向は継続しています。
これではちっともケインズ主義じゃないように思えますが、ケインズが初めてルーズベルトと言葉を交わしたのは「ニューディール政策」開始から2年も経った1935年で、そのときルーズベルトはケインズの印象を労働長官に対して次のように述べています。「彼は複雑な数字ばかり提示した。あれは経済学者ではなく数学者に違いない。」と。一方、ケインズもルーズベルトを評して「ルーズベルトは馬鹿だ。ただし経済学的には。」と散々な物言いです。ケインズは自分の学説に近い形の経済政策が行われている海の向こうの経済大国の状況を興味深く観察して自らの正当性を確認していただけなのです。
このように経済政策について実はそれほど定見が無いルーズベルトの背中を押したのがビンソンに促されたアメリカ海軍でした。もともとフーバーの政策に対抗するために軍艦建造がアメリカに及ぼす経済的貢献度、科学的貢献度、政治的貢献度を研究していた海軍はルーズベルトに対してこれをぶつけます。「4億ドルの海軍予算は129万人の雇用を確保する」「軍艦建造費の85% は最終的に労働者の手に渡るので需要拡大の効果はきわめて大きい」「軍艦建造は関係業種が非常に多く、合計130業種に及ぶのでその活性化は全経済に影響する」といったものです。不況により1000万人以上の失業者を抱えるアメリカにとって、そして国家主導の公共事業に力を入れるべきだと考えるルーズベルトにとって、これは魅力的な提案に映ります。
1933年3月、ルーズベルトはビンソンの要望通り、軍縮条約の制限一杯までの軍艦建造を認めます。その予算は不況から脱出するための民主党政権最初の大規模な経済政策である国家工業再建法(NIRA)によるいわゆる「NIRA予算」から支出されることになり、海軍が要求する2億5300万ドルのうち海軍機の調達予算1500万ドルをルーズベルトによって「それは軍艦とは無関係だから」という単純な理由で削られた2億3800万ドルが合計32隻の新規建造予算としてまず認められます。戦艦は条約によって新造できませんからこのときの予算は補助艦艇に向けられ、空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」はこの予算で建造された「NIRAシップ」の第一陣となります。このように海軍戦略とはあまり関係の無いところで大規模な軍備計画が決定しているのですが、これに一番驚いたのはアメリカ国民でも経済学者たちでもなく、太平洋の向こう側の大日本帝国海軍でした。
※ケインズから「馬鹿」と言われそうな今回のコラムです。
3月 23, 2009
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Posted in: アメリカ戦艦の辿った道, アメリカ海軍
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