パウル・カレルはそう言うけれど・・。

 攻撃隊が独軍の優れた野戦レーダーシステムによって探知され、ソ連空軍は緒戦で壊滅したという「印象」がいまだに根強いクルスクでの航空戦です。「あとは戦車対戦車の戦いだったのだ」とした方がその戦記を読んでいる人間の殆どを占めるドイツ戦車ファンにとっては気持ちもワクワクする訳です。

 実際には南部の防衛にあたった第2航空軍、第5航空軍、第17航空軍からの連合攻撃隊合計417機はハリコフへの空襲と航空基地攻撃のために出撃しますが、ソ連軍にもあるような野戦レーダーに探知されたからというよりも、野っ原の上空を堂々と飛ぶ長距離攻撃なので当然、敵に察知されて激しく邀撃されてしまい、戦果が上がらず大損害を受けます。ドイツ空軍の「勝利」とはこの戦闘の結果を誇張してあたかも全体の推移の如く語ったその語り口の中にのみ存在します。

 しかしソ連軍にとってこの程度の規模の攻撃隊が損害を受けても受けなくても、他の作戦に大きな影響は出ません。それが証拠に第16航空軍のみで、7月10日までに爆弾2,000発、対戦車クラスター弾23,315発、焼夷弾4,000キャニスター、ロケット弾4,000発、機関砲弾566,000発を使用しています。

 これはこれで大した量ではありますが、本来、ソ連の航空軍は一個軍でももう少し沢山の爆弾を降らせる力があります。そのあと少しの奮発ができなかった理由は先に書いた基地配置の問題と、戦闘機隊の負担が戦場上空の哨戒と攻撃隊の護衛という二重の任務でパンクしていたこと、そしてさらに計画されていたソ連軍の反撃作戦のための兵力蓄積が実施されていたことが出撃率の伸び悩みに繋がっています。

 両軍の活動を比較すると、7月5日はドイツ空軍は4,298ソーティ、ソ連空軍は3,140ソーティと、ドイツ空軍のソーティレートが優位にあります。基地配置のお蔭です。ドイツ軍は一日あたりそれだけ沢山働いたということです。

 ところがドイツ空軍の活動は翌日の7月6日には2,100に落ち込んでしまい、二度と回復しません。逆にソ連空軍は7月9日に至っても3,227ソーティを記録しています。沈黙したのはソ連空軍ではなく「レーダーで探知して大勝利・・・」のはずのドイツ空軍の方です。

 これではマンシュタインがいくら「攻撃続行」を望んでいても所詮は夢だったことがわかります。というか前線に居てそれが理解できないマンシュタインのセンスが疑われます。本当に攻勢の継続を要望したのかどうか、ちょっと信じ難いものがあります。

 また北部地区での航空攻撃は最初から低調で、ドイツ空軍とソ連空軍のソーティ数は1対3の比率で、とてもドイツ軍が北部からの突破を本気で考えていたとは思えません。極端に言えば陽動作戦のレベルです。

 ソ連軍中央は北部地区での制空権を戦闘3日目の7月7日から8日に確立し、南部地区では7月11日に制空権を確立したと判断しています。南部地区のドイツ空軍がそれだけ奮闘したということですが、ドイツ軍渾身の大攻勢であってもその空軍の活動は北部で3日、南部で一週間も継続できなかったということでもあります。

3月 7, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ソ連空軍, ソ連空軍復活の背景

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