ルフトハンザの果たした役割

 ヴェルサイユ条約下のドイツでは空軍が存在しなかったことになっています。けれどもドイツの航空部隊はゼークトの指導の下に様々な形に姿を変えて存続しようと試みます。ドクトリン策定は前対戦の戦訓研究によって進めることができたものの、軍用機の乗員は常に若い世代を訓練し続けなければ維持できません。だからといって民間のスポーツ航空をいかに奨励しても軍事航空の世界で要求されるスキルは到底維持できませんから、もっと本格的な航空に関する諸技術を組織的に温存発展させなければならず、スポーツ航空よりも大きな規模で、しかも最新鋭の機材で訓練しなければ空軍は維持できないのです。そのために設立された組織が有名なルフトハンザです。

 1920年代から1930年代にかけてのヨーロッパで旅客機を運用していた二大国は前大戦同様、フランスとドイツですが、古き良き時代の華やかな雰囲気に包まれてはいるもののフランスの国際航空旅客ビジネスはまったく採算が取れず、膨大な赤字を抱えてドイツの後塵を拝してしまいます。それを尻目にルフトハンザが大発展を遂げるのですが、ルフトハンザの経営が他社にくらべて際立っていた訳ではなく、その実状はフランスどころではない赤字経営です。大量輸送ができない時代の旅客航空はなかなかビジネスとして成立しにくかったので無理も無い話ですが、だからこそその国の航空会社の継続と発展は国家がどれだけ援助するかに掛かっていました。

 国内航空会社を合同して設立されたルフトハンザは国策会社として豊富な資金を供与されながらまったく利益の上がらない事業を第二次世界大戦まで継続拡大しています。先進的なイメージを与えるドイツの旅客航空は最初から最後まで事業的にはまったく破綻していたのです。戦間期のヨーロッパで民間航空が発展したなどというのは幻想もいいところです。

 たとえばフランスの民間航空は純粋な旅客、貨物輸送による収益の10倍にあたる援助を受けて何とか継続している状態でした。大雑把に言えば採算の取れる売り上げの1/10しか客も荷物も運べなかったということです。ルフトハンザもまた収入の70% は国家の補助金で、年間2000万ライヒスマルクを注入されながら維持されています。しかしフランスとの大きな違いはドイツの民間航空が高度に集約化され、空港設備や機材を生産する航空機工業までが一貫して国家によって管理されていた点にあります。

 他国に比べて財政的に極めて厳しいはずのドイツが国策航空会社に膨大な資金をつぎ込んでまで維持した理由は明確です。それがひとつの「空軍」だったからです。当時の爆撃機と同等またはそれ以上の全金属製多発機を多数運用して長距離飛行を繰り返す組織はそれだけで長距離爆撃機部隊に必要な乗員のスキル維持と爆撃機部隊にとって最も重要な航法技術の確立と発展に役立つ上に、その組織の要所は完璧に前大戦の航空将校OBによって占められています。

 事業を行いながら軍と連携して長距離爆撃機乗員の訓練と技術研究を行うルフトハンザはまさに武装なき空軍でした。戦間期ヨーロッパで旅客数でも運行距離合計でも他国を遥かに凌ぐ大航空会社、ルフトハンザはドイツ空軍の再建に非常に大きな役割を果たしています。たとえば第二次大戦初期、戦略爆撃を最も重視していたはずのイギリス空軍が爆撃機コマンドの夜間航法、洋上航法の未熟さによって作戦を制限されていましたが、これとは対照的にドイツ空軍が長距離航法能力に優れた爆撃機乗員を多数揃えることができた理由のひとつがルフトハンザの存在です。

 ルフトハンザとはそうした組織でしたから第二次世界大戦中の航空相として腕を振るったエルハルト ミルヒが支配人に任命されたのは偶然ではありません。ミルヒは軍内部で航空ドクトリン策定作業の中心にあったヴィルベルクとは飛行隊長として先輩後輩の関係にあり、1920年にはやがてルフトハンザに統合されるユンカース航空会社に「保存」された後、合併によってルフトハンザに移籍します。そしてルフトハンザを指導する官の側もまた同じような人事の下にあり、大戦中の戦略爆撃航空団の司令を勤め、ロンドン爆撃を指揮したエルンスト ブランデンブルクもゼークトの推薦によって運輸省の民間航空局長の座に就いています。(ここでもゼークトです。ルフトヴァッフェはゼークトに足を向けて寝られません。)この二人を官民の筆頭として1920年代のドイツの民間航空に関わる要所の人事はほぼ全てこんな具合です。その結果、第二次世界大戦下の全ドイツ空軍高級将校の4人に1人はこうした施策の下で民間航空に保存された人々で成り立っています。

 第二次世界大戦を戦ったドイツ空軍は戦間期の長い空白期間のために高級将校が存在せず、その要職に多数の陸軍出身者や民間航空出身者が就任したために上層部に有能な人材が少なく、なおかつ軍出身者と民間航空出身者との間での文化の違いによる派閥の対立があったともっともらしく解説されることがありますが、そんなことを言っても事実上、戦間期のドイツには真の民間航空が存在しないのです。そしてドイツ陸軍内には前大戦の前線指揮官達が保存されていましたし、そうでないドイツ陸軍将校も他国の陸軍とは比較にならないほど航空についての教育を受けています。そして民間航空出身者の正体はここで紹介した通りです。

 諸外国空軍の実状に比較してもドイツ空軍の上層部に空軍について見識と経験が欠けていたどころか、満を持して集結した選ばれた人材によって、資質の面ではむしろ恵まれていたといえます。誕生間もない時期にスペイン内戦に介入し、アフリカ大陸から2万人ものフランコ派兵士とその装備の大量急速輸送を成功させ、内戦中に見事な機動集中作戦をやってのけた高級指揮官達を素人呼ばわりできる空軍が当時、世界の何処にあったでしょう。 

3月 1, 2009 · BUN · 5 Comments
Posted in: ドイツ空軍

5 Responses

  1. すすむ - 3月 1, 2009

    自衛隊もそうだし、Uボートだってそうだったけれど組織再建の陰にはそうした努力が隠れているんですねぇ。

    しかし、よくネタが尽きないね(笑)
    俺にゃ無理だわ。

    また呑もう。

  2. fff - 3月 2, 2009

    楽しみに読ませて頂いております。
    裏を返すと、多数の乗員を維持、供給するためには、
    国内航空網を作っては送り出してすりつぶし合うだけ
    のコストを払っても、足りなかったと言うことですよね。

    某海軍が南洋の消耗戦に耐えられないわけですね。
    値上げする一方の(=敵がどんどん増えていく)日々
    の家賃や公共料金の先を考えるだけで頭一杯で、
    食費を限界まで切り詰め・・
    子供(パイロット候補生)の事を思い出す余裕すら
    無し。
    その辺で砂遊びでもさせておくしかないよと。

  3. BUN - 3月 2, 2009

    すすむさん
    いらっしゃいませ。
    これから札幌へは半月に一回くらいお邪魔します。
    よろしく。

    fffさん

    空軍の保存は海軍の保存より安く上がる、という点も重要なんです。そこに国家としての選択があったんですね。

     たとえ間口の狭い兵器開発史であっても経済史的視点は重要だと思います。日本海軍は対米8割の補助艦艇兵力を理想に軍備を進めていましたが、アメリカの軍備増強を自然現象、天変地異のようにとらえる日本の戦史家からは、無理だ、駄目だと酷評されています。でも、その経済的な裏事情はどうだったのか、本当はそれが知りたいですよね。

  4. いものや - 3月 2, 2009

    いつも楽しく拝読しています。おっしゃるように、軍備史の背景としての『娑婆の経済事情・社会事情』に面白みを感じさせていただいております。

    最近疑問に思っているのですが、WW2であれほど沢山の艦艇船舶を作り上げた合衆国の造船能力が、どうしていつしか日本にキャッチアップされてしまったのか、あれこれ考えたりしています。

    今後ともどうぞよろしくお願いします。

  5. toto - 3月 3, 2009

    いつも眼からうろこが落ちる思いで読ませていただいてます。
    企業としてみた場合収益ゼロに等しい軍隊に比べれば赤字とは言え多少なりとも
    利益の上がる航空会社という形で運営したほうが国情に合うということでしょうか。
    赤字に苦しんでいますが「日本航空の果たした役割」と置き換えた場合、
    その赤字にも意味がある、と言うことなのでしょうか。

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