戦闘機ドクトリン十年の停滞

 アメリカ陸軍航空隊が西半球防衛という概念を持ち出してまで手に入れようとした長距離爆撃機の陰に隠れて、空軍のもうひとつの花形であるはずの戦闘機はどうなっていたのでしょう。

 敵空軍を撃破するには空中戦によって撃墜するよりも地上にあるうちに機体と設備を破壊することが効率的だという発想は各国空軍で一般的なものでした。こうした航空撃滅戦の概念は地上支援用、艦隊支援用の航空部隊では原則的に持ち得ないものです。空軍が友軍の地上、水上部隊の作戦とは無関係に敵空軍を独力で直接攻撃する航空撃滅戦は独立空軍としての実質を備えた航空部隊であって初めて取り組める課題です。

 アメリカ陸軍航空隊はドーウェの理論に従って爆撃機によって敵空軍を無力化することを第一に考えていましたが、敵航空基地を攻撃しながら友軍の航空基地を守るためにはこちらから一方的に攻撃できる長距離爆撃機を保有することが前提となります。アメリカ陸軍航空隊が爆撃機のカテゴリーを行動半径主体で分類しているのはそのためです。

 こうしたアウトレンジ志向はアメリカだけでなく、同じように太平洋上の戦闘を研究していた日本海軍航空隊にも根強く存在しましたが、長距離爆撃作戦は空中で最も強力な存在であるはずの単座戦闘機を置き去りにしてしまうものでした。

このためにアメリカ陸軍航空隊は戦闘機を敵爆撃機の邀撃主体の「追撃機」として位置づけ、要地の防空に用いることを目的に1930年代後半から高速重武装の戦闘機を開発し始めます。1938年度に予算が成立したXP-37(後にP-40へと発展)、XP-38、XP-39はそれぞれ機関砲を装備した重武装の短距離高速戦闘機として計画されています。

 第二次世界大戦で長距離戦闘機の先駆けとして活躍したP-38でさえ、原コンセプトは排気タービン装備の1000馬力発動機を双発で装備することでより高速でより重武装の邀撃戦闘機を実現しようとしたものです。数年後に増槽を抱いて参加した長距離侵攻作戦はP-38本来の任務ではなかったのです。

 1939年5月、陸軍航空隊が陸軍省へ提出した「アメリカ大陸防衛における航空機の運用」と題された研究報告では従来のドクトリンそのままに「爆撃機、攻撃機の強化が最優先」であり、「戦闘機、偵察機は第二の存在」であるとしています。爆撃機を護衛する長距離護衛戦闘機については「長距離護衛戦闘機は重要」としながらも「そのような長距離戦闘機は実現不可能」と述べ、従来型の戦闘機は局地の防衛にのみ有効であるので軍用機生産の主力は爆撃機に向けるべきだとしています。

 しかし1939年9月にはドイツがポーランドへ武力侵攻したことで第二次世界大戦が勃発し、陸軍航空隊にもリアルな情報が入るようになると若干の変化が訪れます。近代的空軍同士が実際に戦ってみると爆撃機編隊は戦闘機を排除できずに損害を蒙る戦例がいくつも見られるようになり、1939年11月、陸軍航空隊司令官アーノルド少将はそれまでのドクトリンの見直しを命じ、戦闘機を軽視する教育を行ってきた幹部将校達を批判します。

 そして爆撃機護衛の研究を開始しますが、この研究に際して第一線部隊から上がってきた報告は「現有アメリカ爆撃機は現有アメリカ戦闘機に対して自衛する能力が無い」「爆撃隊をヨーロッパ戦線に投入した場合、夜間爆撃でない限り爆撃隊の損害は50%に達する」という衝撃的な内容でした。

 この研究によってアメリカ戦闘機の開発に若干の軌道修正がなされます。それまで戦闘機個々の設計に合わせて検討された武装を現在採用可能な各種武装をそのまま搭載できるウェポンシステム的な発想が取り入れられたほか、戦術の研究、地上支援要員とそのシステムの研究が組織的に開始されています。

 アメリカ戦闘機の武装が機種ごとに各種口径バラバラの装備から口径を統一した武装へと変化したのはこの研究の成果です。また1939年頃から戦闘機のカテゴリーが「邀撃戦闘機」と「戦闘機」に分化して若干長距離を飛べるP-38が「戦闘機」として扱われるようになりますが、長距離爆撃機の護衛戦闘機という意味ではありません。

 そして問題の長距離戦闘機ですが、1940年1月には通常の戦闘機概念では長距離爆撃機に随伴できる戦闘機の開発は難しいとの判断から、爆撃機からの空中給油を受ける案と爆撃機に直接吊り下げられて戦闘空域で発着可能な特殊戦闘機案の検討が行われます。続いて1940年3月には将来の長距離護衛戦闘機要求について、まったく新規の開発と現有機種ベースの改造案の両者が比較され、現有戦闘機ベースの改造は不可能と判断されます。同時に新規開発は当面の戦争には間に合わないことも理解されます。

 そこで登場した解決案は爆撃機の改造による武装強化機案です。機関銃と動力銃塔を増設した爆撃機を製作し、その武装強化機を爆撃機の9機編隊の最後尾に配置する案が現れます。数年前、B-10爆撃機時代にも現れた提案ですが、同じ頃、日本陸海軍でも一式陸上攻撃機や一〇〇式重爆撃機の武装を強化した「(爆撃機編隊の)翼端掩護機」「多座戦闘機」といった試作が行われています。爆撃機の長距離護衛にはどこの国も同じようなことを考えるものですが、この提案はかなり注目を集めたため、本来、斬新な新長距離護衛戦闘機を緊急開発したかったアーノルドは後へ引けない立場となります。

 さらに1940年夏のバトルオブブリテンの戦闘を分析したアメリカ陸軍航空隊は奇妙な結論に至ります。イギリス空軍戦闘機隊がドイツ空軍爆撃機隊を撃破した大規模な航空戦を観察したアメリカ陸軍航空隊は、爆撃機一般の能力よりも、ドイツ爆撃機が尾部銃座を持たないことやその防御火力そのものが貧弱であることなどに着目し、一方でイギリス空軍爆撃機隊の損害がそれほどでもないことから、爆撃機の武装強化と防弾装備の充実をはかればドイツ戦闘機を排除できるとの考えを強めます。

 ドイツ空軍の爆撃機が大損害を蒙ったのは爆撃機の武装と防弾が貧弱で空中戦の訓練も未熟だったからだとして、これらを解決してさらに爆弾搭載量の大きな打撃力のある機体を配備できれば長距離護衛戦闘機の不在をカバーできるとしたのです。ドイツ本土への爆撃にはその入り口に待ち構えるドイツ戦闘機を友軍戦闘機で排除できれば爆撃作戦は実施可能だという判断でした。

 こうした認識が力を持ったために1942年から開始されたドイツ本土爆撃で、B-17編隊は昼間に護衛戦闘機無しでドイツ本土へと侵攻し、その行程のうち、必ず飛行しなければならないイギリス本土と大陸沿岸地区では敵戦闘機の濃厚な邀撃が予想されるために当時の最優秀戦闘機であるスピットファイアが爆撃隊に随伴するという作戦形態が生まれます。

 よく思い出せばこの形態はアメリカ陸軍航空隊の戦前ドクトリンそのままです。「前線における敵戦闘機の邀撃を友軍戦闘機によって排除して道を切り開けば、速度と火力に優れた爆撃機隊は敵本土深部へと侵攻できる」とした1930年の陸軍航空隊戦術学校のテキスト内容がそのまま10年以上後になって実施されたということです。

「我々は10年間、何をしていたのだろう?」
と考え込んだ人物を探していますが今のところ見つかりません。

8月 25, 2008 · BUN · 6 Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

6 Responses

  1. おがさわら - 8月 26, 2008

    こうやって、でかい組織が右往左往する様を見るのは楽しいやね。
    「追撃機」って、原語はなに?

  2. ささき - 8月 27, 2008

    米陸軍航空隊 Persuit の語源はフランス航空隊の Chasse(Chaser=追撃機) だったのではないかと思っていますが、何の確証もありません(´Д`)r

  3. BUN - 8月 27, 2008

    おがさわらさん

    国分町で呑んだくれている間にささきさんが助けてくれました。ささきさん、ありがとうございます。
    日本でもYuzo Kayamaが数十年前から
    「ぼかぁChasseだなぁ」
    と主張していたことを思い出しました。

  4. マンスール - 8月 27, 2008

    ささきさん
    P”u”rsuitなり~

  5. ねこ800 - 3月 27, 2009

    >敵空軍を撃破するには空中戦によって撃墜するよりも地上にあるうちに機体と設備を破壊することが効率的だという発想は各国空軍で一般的なものでした。

    ヒトラーもこう考えていたんですよね???

    戦闘機より爆撃機を優先したとして批判されがちですけど、当時の普通の認識だとしたら、正しかったのはヒトラーかも???

  6. BUN - 3月 31, 2009

    ねこ800さん

    その通りです。
    第一次世界大戦中から湾岸戦争まで戦争のやり方は変わりません。
    戦闘機に重点を置き、爆撃機部隊の貧弱な空軍を持つナチスドイツというものが存在したとしても、それに黙って併合されるような国はなかったでしょう。

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