夏休み特番 「日本海軍機 迷彩塗粧ヲナセ!」 3

 カラーリングの大事な要素は色とパターンです。海軍機と陸軍機に施された迷彩塗粧の違いについて知る手掛かりとして、高雄航空隊がまとめた支那事変初期の戦訓中にこんな記述があります。

「海軍ニ於テハ専ラ保護色ニヨル迷彩ヲ採用セルモ効果二於テハ 陸軍ニテ採用セル眩惑迷彩ヲ有利トス」

 海軍と陸軍ではパターンが違い、色だけに頼らず明暗による分割効果を狙った迷彩を行っている一部の陸軍機の方が 実際に爆撃をする立場から眺めると効果的だと言っているのです。
 既に兵器の迷彩規定を持っている陸軍の方がこの方面でリードしている、と認識していたようにも感じられます。 海軍にとって迷彩を必要とするような大陸の航空戦は不得手、という雰囲気もありますね。

 そして、パターンが違うのに「陸軍機と同様」ということは 使っている色が基本的に陸軍と同じということなのでしょう。

 こうしてとりあえず迷彩は陸軍機と同色を用いて開始され、パターンにはある程度の幅が許されたようにも読めますが、写真を眺めつつ読み返すと、実は海軍機にはパターンが無いんじゃないか、という気もして来ます。陸軍式迷彩塗料の単色塗粧が主体なのではないか、ということです。迷彩塗料は陸軍と「同様」だと考えられますので航空戦力に劣る陸軍は海軍航空を利用するために 機体の迷彩に関して相当に協力したのではないかと思います。とにかく迷彩塗粧に関してはこんな応急的な状況が対米開戦直前まで続くことになります。
 いえ、続いたというよりも、支那事変勃発当時の日本海軍は上海の包囲を解けば戦闘はじきに終わると思っていたようです。

 それがまだしばらくは終わりそうもないので、また官房機密第五〇五へと戻り、うやむやのまま「航空本部長ヲシテ後送セシム」とした「様式」を改めて戦時規定として伝える必要が出て来ます。

 これが昭和13年1月31日の航本機密第五三番電の枯草色指定なのです。

昭和13年1月31日
航本機密第五三番電

各艦隊各鎮守府各要港部参謀長宛

航空機迷彩塗粧ニ関シ左ノ通改メラル

一、陸攻ノ翼及胴体上面ノ迷彩塗粧色ヲ枯草色トス

二、要スレバ艦上機モ同様ノ迷彩塗粧ヲナスコトヲ得

 陸攻と艦上機の迷彩を枯草色に統一したんですね。
 雰囲気として現状を追認したような規定にも読めますが、単色塗粧の場合は写真写りの濃淡に縛られず、まずは枯草色と判断してよいみたいです。

 けれども初めて統一的な迷彩様式を定めたこの命令は3ヶ月後に改正されてしまいます。

昭和13年5月7日
航本機密第二五一番電

各艦隊各鎮守府各要港部参謀長宛

陸上攻撃機及艦上機ノ迷彩塗粧様式ハ現地ニ於テ四囲ノ状況ニ応ジ
枯草色ニ漸次草色ヲ配スル等適宜変更スルコトヲ得ルコトニ改メラル

 これは1月末に決めた枯草色単色迷彩が、事変が夏を迎える前に終結するのでは、との見通しで定められた秋冬用の迷彩規定だった事を示しているようです。
 春になり、このまま夏になっても終わりそうもないと諦めた5月に「陸軍がやっているように」季節に合わせて緑を入れて良いとして迷彩に汎用性を持たせたようにも解釈できます。そして5月の規定改正で実際に塗り替え作業が行われたことは、当時の九六式陸上攻撃機の写真に枯草色単色迷彩の上に草色の迷彩を掛けようとして作業途中で出撃したと思われる機体が写っていることから確認することができます。明るめの褐色である枯草色と、あまりくすんでいない緑色である草色との2色迷彩はこのときに決められ、昭和16年末に近づいて対米戦用の暗緑色一色の迷彩が登場するまで続きます。

 このようにして迷彩の様式決まって行くと、不要になる器材が出て来ます。

 それが九六式陸上攻撃機用に配備されていた「迷彩覆」です。この大きな迷彩布が不用品として在庫されるようになります。機体に直接迷彩を施したので、操縦席と発動機回りだけを覆えばこと足りるので迷彩覆は必要ない、と報告されています。けれども、この迷彩覆は昭和15年の夏に倉庫から引き出されて再び使われるようになります。何に被せたのかと言えば、あの零戦に被せたのです。

 

 支那事変の戦訓に関して海軍航空廠(後の航空技術廠)との間での質疑応答が残っていますが、そこでは現在の迷彩塗粧が艶消しで表面が荒く、空気抵抗が大きいので飛行性能を損なうのが難点であるとされています。高速を本分とする戦闘機には不向きだということです。零戦には最初の12機分だけ専用の迷彩覆が作られて配備されましたが、これらは面積が小さく、後の補充機には在庫されている九六式陸上攻撃機用の迷彩覆を用いるように命じられています。こっちの方がたっぷりとして役に立ったからですね。漢口基地の零戦は操縦席や弾倉を覆うだけでなく、中攻用の大きな迷彩覆をガバっと掛けられていたということです。零戦の灰色塗粧は航空本部が説明しているように高速発揮のために機体表面を滑面に仕上げる目的で施されたものですが、当時、たびたび敵爆撃機の奇襲を受けていた漢口基地に配備された虎の子の新鋭機に迷彩塗粧が必要とされなかったのはこの迷彩覆の余剰があったからでもあります。

 

 ちょっと横道にそれつつ、これで日本海軍機の迷彩に関する各命令と状況が何とかうまく繋がって見えるはずなんですが、右往左往した有り様を掘り起こしても面白くないこと甚だしいですね。
けれども迷彩塗粧の実施ひとつを見ても日本海軍にとって支那事変が突発的事態だったことが納得できるのではないでしょうか。

8月 15, 2012 · BUN · 9 Comments
Posted in: 陸海軍航空隊

9 Responses

  1. MUN - 8月 16, 2012

    こんばんは。

    特番ありがとうございます(^-^)/

    お待ちしていました、日本軍関係(^-^)/

    ちなみに、イラクに派遣した自衛隊は、
    日本用の迷彩でしたが、あれも突発的な
    ことが理由なのでしょうか?

    私は、日本を逆に一目で浮き立たせる
    ことで、標的にされにくくするための
    逆迷彩、だと思いたいのですがf^_^;)

    これからも日本軍関係お願いいたします(^-^)/

    次は冬でしょうかf^_^;)

  2. BUN - 8月 16, 2012

    MUNさん

    90年のデザートシールド参加部隊のように迷彩が間に合わないというより、戦闘目的の派遣ではないことに尽きると思います。

  3. gk - 8月 16, 2012

    某所ではいつもお世話になっております。
    ブログもいつも楽しく拝見していました。こちらでもよろしくお願いします。
    今回は諸説ある迷彩塗装、中でも有名な灰色二色に見える零戦のお話が出てきたので、興味深く読ませていただきました。
    ただでさえ混乱している迷彩塗装ですが、通説が混乱しているのは時系列にそって文書にあたらず、不確かな証言や伝聞を元に組み立てられてるからなのかもしれませんね。

    さて零戦の迷彩覆ですが、このように紹介されています。
    http://plaza.rakuten.co.jp/zerotagucci/diary/201202080000/
    対米開戦後も零戦が小さい迷彩覆いを装備していたのはなぜでしょうか?
    実際は写真に写っていないだけで大きいものに変更されていたとか。

    ツヤと空気抵抗のお話も大変興味深いです。

  4. BUN - 8月 16, 2012

    gkさん

    零戦用の迷彩覆は12機分が7月31日に佐世保軍需部から現地宛で富津丸に託送されています。
    零戦にはこれと、九六式陸上攻撃機用日覆を利用せよ、と指示されています。
    この電報は8月9日のもので、それは8月8日の日覆の供給願いに対する返電でした。
    8月8日の漢口軍需品供給所の佐世保軍需部員からの供給願は主翼弾倉の日差しによる過熱問題の対策が理由です。
    富津丸に託送された12セットの零戦用迷彩覆はその直後には届いていたと思われますが、
    12空の零戦隊は8月中に17機に及んでいますし、その後の補充もありますからご指摘の記事内容で解決なのかどうか、あんまりスッキリ説明できませんし、もう少し検討してみる必要があるかもしれませんね。

  5. MUN - 8月 16, 2012

    そうですね(^-^)/

    まさに、戦闘目的ではない、ということを全面に打ち出したが故のあの迷彩なんでしょうね。
    こういう意味の迷彩もありなんだな、と、当時は関心していました。

    逆に、空自の輸送機なんかは、
    結構危険なところにいたので、きちんと現地の空色に迷彩してますよね、、確かf^_^;)

    ともかく、日本軍関係ありがとうございました!

  6. MUN - 9月 25, 2012

    BUNさん、お忙しいですか?

    最近アップされずに寂しい限りです。

  7. 出沼ひさし - 1月 3, 2013

    質問があります。

    真珠湾攻撃の2航戦搭載艦攻は、濃緑色と茶色の迷彩と言われていますが、この茶色は枯れ草色と同じでしょうか?
    それとも別の色だったのでしょうか?

  8. BUN - 1月 3, 2013

    海軍機の迷彩色は昭和16年の機体工作標準に別の色名が書かれています。けれどもこの色が果たして本当に使用されたのかどうか、ちょっと疑問があります。すなわち工作標準の色指定はそれまでの応急的迷彩を仮規117に読み換えるために記されたものではないかという疑問です。というのもこの時期に空技廠では既に対米戦用の迷彩実験が開始されていますので、支那事変用迷彩の規格化を進める必要が無いからです。ということで、確証はないんですが、昭和13年の令達が生きていると考えています。

  9. 出沼ひさし - 1月 5, 2013

    ありがとうございます。
    濃緑色と枯れ草色の迷彩の可能性が高いのですね。

    「機体工作標準」、読んでみます。

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