アルメデレール以前 20 (機種構成比率と意味)

 第一次世界大戦の航空戦は戦争最初の年である1914年にその情報収集能力を評価され、陸戦の勝敗を握る重要兵器との認識が確立されています。各国陸軍の高級指揮官にとって航空偵察情報の無い陸戦は考えられない世界が始まったということです。戦争二年目の1915年には空中戦闘を専門とする単座戦闘機が登場しましたが、それよりも注目すべき点は前年の単機による爆撃に代わって飛行機の集団が今まで砲兵の手が届かなかった敵前線後方の重要施設に対して爆撃を行うようになったことです。

 そして1916年には圧倒的な兵力集中によって敵の航空作戦を許さない航空優勢を獲得することが航空戦の重要な目的となって来ます。春のベルダンとそれに続くソンムの戦いでフランスの単座戦闘機が大集団で投入され、それに対応してドイツ軍単座戦闘機も集団化が進みます。1916年は航空優勢を直接奪い取るための兵器である単座戦闘機が集団的に運用され始めた年といえます。

 翌年、1917年には敵味方の戦闘機集団が戦術を駆使して戦う航空優勢の争奪戦がより激しく戦われ、敵味方の飛行機がより大規模に動員され、大量の飛行機を集中して作戦することそれ自体で機材と人員に大量の損耗が生じることが思い知らされましたが、戦略爆撃、阻止爆撃、航空撃滅戦と発展して来た航空戦の概念が地上軍に対する組織的な近接航空支援にまでたどり着いた年でもあります。飛行機が地上戦に直接、有効に関わり、その勝敗を直接左右するような存在へと成長した年です。

 戦争最後の年、1918年は前年に発展した近接航空支援の概念とその実行システムがそれまで戦争を膠着させていた最大の原因である塹壕陣地線の突破を実現した年です。1918年春のドイツ軍攻勢は大規模機動集中による航空優勢獲得とシステム化された近接航空支援によって連合軍陣地線を突破し、やがて連合軍のより大規模な航空兵力集中によって航空優勢を奪回されてその攻勢を頓挫させています。その後は、アメリカ陸軍航空隊の参加と連合軍の爆撃機兵力統合による大規模な近接航空支援と阻止爆撃がドイツ軍戦線突破の道を開き、戦線を押し返しながら休戦へとなだれ込みます。両軍ともそれまでの年には経験しなかった戦闘による大出血に耐えながらの航空戦です。戦術と機材に優れたドイツ軍でさえ近接航空支援作戦の負荷からは逃れられず、空の戦いは航空消耗戦へと変貌します。

こうして開戦以来、4年の月日を経た1918年8月、各国航空部隊の機種構成はこんな形に行き着いています。

フランス軍 戦闘機 34% 偵察観測機 51% 爆撃機 15%
イギリス軍 戦闘機 55% 偵察観測機 23% 爆撃機 22%
イタリア軍 戦闘機 46% 偵察観測機 45% 爆撃機 9%
アメリカ軍 戦闘機 47% 偵察観測機 47% 爆撃機 7%
ドイツ軍  戦闘機 42% 偵察観測機 50% 爆撃機 8%

 1916年頃には10%程度の比率だった戦闘機隊の増強が著しいことがわかります。航空兵力の半分程度を戦闘機が占めるようになって来ているのはどこの空軍も航空優勢を積極的な空中戦によって獲得しようとしているからです。ただ一国、フランスだけは34%と戦闘機の比率が目立って低いのですが、これは戦闘機隊が小規模だったからではなく、フランス陸軍航空隊が世界一の大所帯であるためです。フランス陸軍戦闘機隊は1918年7月に兵力1000機を超えた世界最大の戦闘機隊です。太平洋戦争開戦時の日本陸海軍航空隊よりも大規模な戦闘機隊を持っていたことになります。
      
 ただ、偵察観測機が半数以上を占めている点はフランス陸軍航空隊の一大特徴に変わりありません。砲兵の支援兵力として発達したフランス陸軍航空隊の性格は戦争の最後の年まで受け継がれていたことがこの数字からもわかります。日本陸軍が偵察観測機を重視して様々な偵察機、観測機を開発して装備し続けたのは第一次世界大戦後に「砲兵空軍だったフランスから航空戦を学んだからだ」ということも納得できます。日本陸軍爆撃機、襲撃機から軽爆、重爆に至るまで一貫して戦略爆撃ではなく敵基地爆撃による航空撃滅戦をその用途として明確に示して開発されているのも、源を辿れば戦略爆撃に懐疑的だったフランス陸軍流の発想に行き着きます。

 イギリス空軍に戦闘機の比率が目立って高いのは、本土防空用と、単座戦闘機による地上銃撃、爆撃を近接航空支援の柱に据えていたことがその理由です。そのために単座戦闘機の需要が多く、さらに対ドイツ戦略爆撃を重視したために爆撃機の比率が高くなっています。これはイギリス本土を何年にもわたってドイツ軍の戦略爆撃に曝され続けた結果と言えます。

 アメリカ軍の機種比率は1918年末から1919年にかけて変化する途上にあると考えられます。恐らくイギリス軍を超えて爆撃機の比率がどんどん上がるはずです。連合軍の中でアメリカ陸軍航空隊に期待された役割がそこにあったからで、1918年夏の状況はそこに至る途中で、リバティー発動機を搭載した爆撃機群もまだ加わっていません。来るべき連合軍の対ドイツ大規模戦略爆撃計画は、フランス政府に圧力をかけてもなお、押しても引いても動こうとしないフランス陸軍航空隊の負担分をアメリカ陸軍航空隊が代替する形で進められています。

 フランス陸軍航空隊は総司令部直轄の航空師団に属する決戦用の機動集中部隊と野戦軍の指揮下に置かれる地上軍支援部隊とに分かれます。兵力の半数以上を占める野戦軍指揮下の偵察観測部隊は華々しい戦記にも縁遠く、実に地味な存在ですが、実際には野戦軍指揮下には航空師団に属する兵力(戦闘機の約半数と爆撃機部隊、そして偵察機の一部)以外の航空兵力は野戦軍指揮下にあったということで、第一次世界大戦の陸戦が航空とどれだけ密接に結びついていたかがわかります。

 地上軍が航空支援を手厚く受けるには、機動集中する戦略部隊と臨機応変の協調をはかる柔軟で精密な組織を作り上げる以外に、航空部隊を地上軍の指揮下に入れてしまうことも一つの手法だった訳です。もし戦争計画の中で大規模な機動突破作戦と戦略爆撃作戦の優先順位が下がったなら、後者は戦略的な柔軟さには欠けますが、簡潔で実行しやすい堅実なやり方でもあります。それは「せっかくの空軍独立を果たしながら、第二次世界大戦時にフランス空軍が素直に陸軍の指揮下に入ったのはなぜか?」という問いに対する大きなヒントでもあるはずです。

3月 30, 2010 · BUN · 3 Comments
Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦

3 Responses

  1. ヤマザクラ - 4月 1, 2010

    >戦略部隊と臨機応変の協調をはかる柔軟で精密な組織を作り上げる以外に
    >航空部隊を地上軍の指揮下に入れてしまうことも一つの手法だった

    たとえば、WWIIでドイツ軍等が目指したような機動航空戦が前者、
    WWII初期のソ連軍のような方向が後者、なのでしょうか。

    しかし、この時代に既に近接支援がこれほど有効だったとは…。

  2. BUN - 4月 1, 2010

    WW2のソ連空軍はww1のドイツ陸軍航空隊が化けて出たようなものではないか、などと実は言いたいのですけれども、もう少し整理してからやろうかな、と。
    WW1の近接航空支援の有効性については英軍の戦車戦術マニュアルが逆説的によく語っているように思います。
    少し間をおいて、次は戦車の話をしようかと思っているんです。

  3. ヤマザクラ - 4月 2, 2010

    どちらの話も面白そうなので、楽しみにお待ちしております。

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