アルメデレール以前 19 (近接航空支援の対価)
1918年の西部戦線は3月21日に開始され、勢いを減じながらも初夏まで続いたドイツ軍最後の攻勢とその後の連合軍の反撃で休戦に至ります。空の戦いもそれに従って展開して行きますが、フランス軍もイギリス軍もドイツ軍さえも戦況の有利不利にかかわらず直面した問題があります。それは戦闘損害の増大です。
1917年は大規模な航空作戦を行うことそれ自体が大きな消耗を強いることをフランス軍とイギリス軍に思い知らせることになりましたが、1917年後半にはそれだけでなく戦闘による損害の増加が目立ち始めます。その原因はカンブレー戦から本格的に実施されるようになった最前線への近接航空支援です。イギリス軍はこの近接航空支援に単座戦闘機を投入することで一定の成果を得る代わりに大きな損害に苦しむようになります。一方、戦闘での損害を優れた戦術で見事に軽減してきたドイツ軍も近接航空支援を組織的に実施するようになってから、損害の増大を無視できなくなってきます。
西部戦線の航空戦は毎年、天候の悪化する冬季は比較的穏やかで敵味方の航空部隊の休息と再編成に充てられていましたが、1917年末から1918年初頭にかけての冬は今までとは大きく異なり、ドイツ軍でさえ、1918年1月だけで779機と乗員241人(うち179人が死亡)を失っています。イギリス軍もフランス軍もほぼ同規模の損害を蒙っているので、ドイツ軍としては損失を敵軍の半分に抑えたとも言えますが、この損害は既に人的資源の尽き始めていたドイツにとって耐えられる水準を超えていました。
イギリス空軍も1918年4月に1302機というかつてない大損害に苦しみますが、1918年の航空戦はそうした損害が勝っても負けてもあまり減らない、という特徴を持っています。むしろ攻勢に出る側の方が大きな損害を出す傾向にあり、地上戦でドイツ軍を押し戻しつつあった1918年9月、10月の損害もドイツ軍の春季攻勢の頃と比べて大きく減った訳ではありません。地上部隊への近接航空支援はそれだけ高くついたのです。
近接航空支援にそれほど熱心ではなかったフランス陸軍航空隊も1918年の戦いでは大きな出血を強いられていて、1918年11月までの軍用機生産は2万4652機に達していても、1918年11月の第一線軍用機総数は3222機に過ぎません。予備機が約2600機あり、練習機がおよそ3000機程度はあったと推定されますから合計9000機程度を保有していたはずですし、1917年末にも予備機と練習機も含めておよそ6000機の保有機があったと思われますから、アメリカ陸軍航空隊に4879機(凄い数です)を供与した残りの1万9773機からさらに海軍向け機数とその他の供与機数(これらがよくわかりませんがどんなに多く見積もっても2000機は超えないでしょう)を引いた機数に前年末の保有機を足して休戦時の保有機数を引いた数が1918年1月から10月までの消耗機数に当ります。どう控えめに計算しても月に1000機を軽く超える飛行機が堕ちるか壊れるか、古くなって廃却されていることになります。
機材の消耗はここまでにして、乗員について考えてみます。幸いなことにフランス軍の操縦者養成実績は全年度にわたって数字があります。
開戦時まで 220人
1914年 134人
1915年 1484人
1916年 2698人
1917年 5609人
1918年 6909人
合計 17054人
そして休戦時の操縦者数は6417人です。ついでに言えば砲戦観測員は1682人 乗員以外の航空隊員は80000人です。全操縦者(民間志願操縦者を除く)の38%が前線に残っていたということで、それほどの損害とは思えない印象もありますが、実際には73%が実戦1年生、2年生である上に戦争最後の6ヶ月間に発生した死傷と行方不明は2327人に及び、そのうち後方での事故による死傷はわずか371人に過ぎません。前に紹介した1917年春とは状況が一変して、機材の充実と教育の改善によって事故が大幅に減り、その代わりに戦闘での損害が顕著に増えていることがわかります。
しかも操縦者の消耗は戦闘と事故による死傷だけではありません。負傷と記録される操縦者はほとんど重傷ですから再起不能か長期の療養が必要でしたが、戦闘で消耗するのは肉体だけではなく、戦争神経症による脱落も無視できません。フランス軍の数字はありませんが、イギリス空軍が1918年10月にまとめた、1917年後半に前線に着任した操縦者1437人の統計が残っています。
そこでは1437人中、260人(18%)が戦死または事故死、287人(20%)が行方不明、382人(26%)が負傷または病気のため入院中、358人(25%)が本国に引き上げ、前線には150人(11%)が残っているのみ、と報告されています。しかも五体満足で帰国できた358人のうち、3ヶ月以内に送還された者が24%、6ヶ月以内に送還されたものが13%、9ヶ月(海外派遣部隊の標準的勤務月数)以内の送還者は36%です。精神的疲労により空中勤務ができないと公式に認められた人数がそれほど多かったということです。
という訳で機材の消耗は大量生産で補い、乗員の消耗は15年、16年、17年と倍、倍で養成できたことでなんとか補ったのが第一次世界大戦のフランス陸軍航空隊だったということですが、ペタンが考えていたような第一線機6000機計画などは機体の都合がついたとしても乗員養成の点でけっこう苦しかったのではないかとも思えます。
第一次世界大戦に参戦した各国航空部隊の勇将、知将は何人も挙げられますが、たとえ地味な役割であってもフランス軍の乗員養成計画関係者ほど航空戦の勝利に貢献した人々はいないような気もします。
そして大事な点がもうひとつ。1918年の航空戦で近接航空支援の重要性が広く認識されたと同時に、その対価が極めて高くつくことが判明したことは、地上部隊と航空部隊の意見対立を生み出す要因となります。地上軍にとって即時、直接の効果が上がる近接航空支援への要求と、大損害を避けて阻止攻撃、航空撃滅戦、戦略爆撃などで合理的かつ独自の作戦を志向する航空部隊との根深い対立です。第二次世界大戦まで尾を引く地上部隊と航空部隊の対立はこの経験に根ざしています。
3月 11, 2010
· BUN · 6 Comments
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6 Responses
シダー - 3月 11, 2010
いつも楽しみに読ませてもらっています。
クドい話とかめんどくさい話を読むのは大好きなのでこのシリーズは特に好きです。
ところで今回の最後の話は「空軍の独立」=「航空撃滅戦の実施」という等式の一環をなす話になると考えていいんでしょうか?
BUN - 3月 11, 2010
シダーさん
ありがとうございます。
以前にアメリカ陸軍航空隊の攻撃機部隊の発展について触れた部分を思い出して戴ければ幸いです。
大きく成功した唯一の航空戦術だったのは事実だけれども、損害の大きい近接航空支援よりもっと根本的なやり方があるはずだ、という発想が1920年代以降に広まる空軍独立論の原点です。
日本陸軍内でも語られた「地上軍に掣肘されない」という言葉は、わかりやすく言い換えれば「近接航空支援ばかりに注力しない」ということです。
その先に組み立てられた理論が第一次大戦で不徹底だった航空撃滅戦や戦略爆撃の追求だったということでしょうね。
栗田 - 3月 15, 2010
いつも楽しく拝読しています。
『ヨソのお宅の何だか大騒ぎ』にしか思っていなかった第1次世界大戦は、かくまでの大損害大消耗を生んでいたことと、さまざまな動向やハプニングの現代性に改めて驚かされています。
第2次世界大戦の様相そのものが、第1次世界大戦で露呈したさまざまな現象の影響を受けたものである という認識が私には欠けていたなあ と思ったりしています。
しかしまあ、つくづくほんとに、皆さん血まみれだったんですね。
BUN - 3月 16, 2010
栗田さん
ありがとうございます。
私も同じように感じています。
欧州に駆逐艦ではなく航空隊を送っていれば、とか、
つい酒の肴にとりとめもなく思ったりしますよね。
栗田 - 3月 18, 2010
欧州への派遣・・・
金剛級の巡洋戦艦隊を送っていれば、というifものの話題はよく耳にしますが、あんまり出番が無かったかもしれませんね。
おっしゃるように航空隊を送っていれば、現場(!?)のあまりにもすさまじい機材・人員の損耗ぶりに直面することで、その後の日本の航空軍備のありかたが大きく変わったかも、とも考えられます。
また、日本の工業界そのものが、マスプロダクションの趨勢に、より早く近づいたかもしれません。
やはり、『世界大会』にちゃんと出場していないと、後になって響くってことなんですかね?
BUN - 3月 19, 2010
日本には操縦者がいませんが、戦争後半に最も必要だったのはその候補者となる人材でしたから高い教養のある日本人士官を送り込めば教育と機材は供給されたはずです。アメリカの参戦を待つまでもなく戦争後半の操縦者は植民地が供給していたのですから。当然、対価は支払われたことでしょうが、戦後に中古機材を高く買わされることもなかったでしょう。
もし数百人程度の派遣が行われたならそれは政治的状況にも影響したかもしれません。
そんなifもあり得るかな・・・と。
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