アルメデレール以前 17 (大航空戦の始まり)
さていよいよ第一次世界大戦最大の航空戦が繰り広げられた1918年までやってきました。ドイツ空軍シリーズでも紹介しましたが、連合軍もドイツ軍も世界大戦最後の一年間の航空戦で最も大きな成果を上げていると同時に最も大きな損害を出しています。1918年の航空戦の血生臭さに比べたら、1915年の「フォッカーの懲罰」と呼ばれた単座戦闘機誕生時の逸話などは言うに及ばず、1916年のベルダン戦も1917年の「血塗れの4月」も穏やかに見えてしまう程です。本格的な航空戦とはどんなものなのか、そして勝っているはずの連合軍にどうしてこんなにも大きな損害が発生したのか、あまり論じられることのないこうした疑問を片付けて行きたいと思います。
1918年初頭、フランス陸軍航空隊は大規模集中による敵航空兵力の撃滅を掲げる新ドクトリンによって再編成され、確実視されていたドイツ軍の春季攻勢を待ち構えていました。航空偵察の結果、ドイツ軍に大規模な攻勢の兆候があることは1月、2月の段階で見破られていましたが、具体的な攻撃日時は謎のままでした。フランス軍偵察機もイギリス軍偵察機もドイツ軍の戦闘機隊の強力な邀撃と擬装によって攻勢開始日とその正面を断定することができません。イギリス軍もフランス軍もドイツ軍の大攻勢が開始されれば現在の戦線を維持できないことも覚悟の上でしたから、いつなのかは解らないにしても、各地で後方に予備飛行場の建設を行い、トラックの増備、撤退路の確保を重視しながら大規模航空戦に備えています。これは1914年の後退戦のように航空部隊が取り残されずに撤退し、反撃するための準備です。
一方、ドイツ軍もまた大規模な攻勢が普通の工夫で察知されずに済むとは考えていません。1918年ともなれば「準備砲撃を最小限に留める」といった姑息な手段のみで奇襲効果が得られるなどと考えるような楽天家は参謀本部に残れる訳がありません。そこで戦術的な奇襲効果は航空兵力の欺瞞行動が担うことになります。攻勢を実施する地区での積極的な爆撃作戦が控えられ、航空部隊の配備も限定されて、通常の偵察行動のみが実施され、まるでそこが攻勢正面ではないかのようなそぶりを見せながら、決戦用の航空兵力は攻撃開始二日前の晩に後方から擬装されていた前線飛行場へ一気に機動集中するという作戦です。
この欺瞞行動は確かな効果がありました。なぜならフランス陸軍総司令部にとって、攻勢二日前に大規模な航空部隊が機動集中することなど常識的には考えられなかったからです。そこに敵機がいないということはそれから半月位は何も起こらないことを意味していたのです。第一次世界大戦の後半ともなれば、そこに砲撃があろうが無かろうが、十分な航空の傘が準備されていない以上、地上軍の大攻勢など実施される訳がないことはフランス陸軍内でさえ当たり前の知識でしたから尚更です。ベルダンでもソンムでも、カンブレでも航空兵力の集中に、下手をすれば1ヶ月もかけていたことを思えば不思議はありません。ドイツ軍はフランス軍との間にある機動集中作戦の経験の差をうまく利用したといえます。
こうして3月21日の攻勢開始時点でドイツ軍は西部戦線全体での兵力は大きく劣勢だったにもかかわらず見事に局所的優勢を実現しています。連合軍、ドイツ軍の兵力に関しては諸説ありますが、連合軍は西部戦線全域で4500機程度の兵力を展開していましたが、ドイツ軍は3668機を準備して2551機を展開し、残りを消耗に耐えて戦い続けるための予備兵力としていたようです。この兵力比率でありながら、攻勢正面に高度に兵力集中を行った結果、攻撃正面ではドイツ軍が機数で30%程度優位に立ち、その機種内訳ではドイツ軍は戦闘機と地上攻撃機を多く含み、各野戦軍指揮下にある偵察機、砲戦観測機が7割程度含まれる連合軍機を大きく引き離す戦闘能力を備えていました。
いよいよ歩兵部隊の大攻勢が開始されるとドイツ軍の動きは際立っています。歩兵部隊が直面する敵特火点を虱潰しに攻撃する装甲で覆われた複座攻撃機隊は歩兵支援の専門教育を受けた部隊である上に、今回の攻勢では攻勢で槍の穂先となる最も先頭を進む歩兵部隊を支援するための空地協同体制が準備、訓練済みでした。たとえば歩兵部隊は前進するとその前面に白布で作られた標識を展開してそこが最前線であることを上空の地上攻撃機に報せます。標識を認識した攻撃機はそれより敵方にある目標を誤爆の心配なしに銃撃し、爆撃し続けることができます。それまで阻止攻撃がもっぱらだった航空部隊が近接支援を有効に実施できるようになったことは画期的な成果した。最前線の歩兵部隊と地上攻撃機との間で曲がりなりにも常時コミュニケーションがとれたことは実に大きな前進です。
また、一般的な印象ではドイツ軍歩兵部隊が採用した軽機関銃を中核とした戦闘群が敵の抵抗の弱い点をめがけて個々に前進突破するという浸透戦術は整然とした前線が表示できないほどに入り組んだ展開を見せそうな気がします。けれども歩兵部隊は現実に上空の友軍機に向けて「ここまでが友軍の領域、ここから先は敵陣」と線を引いて明確に表示できたのです。1918年の3月攻勢では、このように「最前線」を明確に識別できる種類の戦闘が行われていた訳です。これは結構重要なことで、このあたりが適当な解説を真に受けていると「浸透戦術」を過大に評価したり、誤解したりで、陸戦の様相そのものを間違って覚えてしまいます。
こうした濃密な近接航空支援は、集中配備されたドイツ軍戦闘機隊が地上攻撃機部隊を守り抜いたからこそ実現できたものでした。連合軍はドイツ軍戦闘機の壁を打ち破るだけの戦闘機隊を持っていなかったのです。連合軍戦闘機隊の集中が行われてドイツ軍戦闘機隊と拮抗状態となり、ドイツ軍地上攻撃機に連合軍の戦闘機が襲いかかれるようになるまで、そして、ドイツ軍歩兵部隊が白布で最前線の位置を表示することができなくなる程に連合軍機の攻撃が頻繁に行われるようになるまで掛かった日数は、たったの3日間です。
3月21日から3月24日までの3日間という今までの戦闘に比べて驚くほど短期間だけ、攻勢正面の完全制空権が保たれたに過ぎません。ただ、その3日間に成し遂げられたことはあまりにも多く、3日間だけの一方的な航空近接支援はドイツ軍の突破前進を保障したのです。
2月 15, 2010
· BUN · 3 Comments
Posted in: ドイツ空軍, フランス空軍, 第一次世界大戦, 陸戦
3 Responses
wittmann - 2月 16, 2010
なんだか手に汗をにぎる展開にわくわくです。
関係ない話ですが、iPhoneでここを見るとみごとにiPhone対応になっていて見やすいです。いつでもどこでもここを見ることができてうれしいです。
早房一平 - 2月 17, 2010
シナ事変での「最前線には日の丸が置いてある」話しを思い出しました。
このシリーズは毎回面白いです。
BUN - 2月 19, 2010
wittmannさん
読みやすいですか。
やってみるもんですね。
早房さん
お付き合い戴きありがとうございます。
そもそもスパッドとかニューポールという機体に
まったく人気が無いんだなあ、と思い知りました。
でも続けちゃいます。
Leave a Reply