即席空軍大国 3(ライセンス生産の宿命)

 どんなに細々としたものであっても、世界大戦勃発までのアメリカの航空機工業はゼロではありません。ライト兄弟以来、アメリカは航空機の輸出国でしたし、日本軍にもイギリス軍にも飛行機を納めていますから日本海軍の絵葉書にもちゃんとカーチスが写っています。ホール スコット製の航空発動機はアメリカ参戦前まで300基を販売した実績があり、軍用としては重量がありすぎたものの、300馬力クラスの大馬力発動機を製造した経験を積んでいます。軽量で馬力があることが重要な軍用発動機には不適な製品でしたが、ホール スコット社の正式名称はHall-Scott Motor Car Companyで、社名から明らかなようにアメリカの自動車産業の一翼を担う存在だったことが重要です。軍用機大量生産の経験は皆無でも、アメリカの航空発動機製造には当時、世界に先駆けて規格化、機械化された大量生産方式に習熟した自動車工業が深く関係していたのです。

 世界大戦参戦までの間にアメリカの航空発動機製造会社各社はイスパノスイザ、グノーム、ルローンといったヨーロッパ製発動機の製造権を購入済みで、それらのライセンス生産を準備していました。まだまだ平時の体制だった陸軍もこれを歓迎しましたが、軍用機の大量発注は行われていませんでしたから、こうした動きは主にヨーロッパでの軍用航空発動機需要に対応するための自主的努力として行われています。今までも販路は存在していたし、需要増が顕著だったのですから民間企業としては当然の努力でもあります。

 こうした下地があったために、たとえ未経験の軍用航空機発動機であっても製造権さえ購入すればたちどころに大量生産ができるとの判断が下され、アメリカ参戦時に陸海軍統合技術会議が決定した航空発動機の生産方針は現在、製造中のアメリカ製発動機を初等練習機用として増産することと、ヨーロッパ製発動機のライセンス生産によって高等練習機用発動機と第一線軍用機用発動機の大量生産に着手する、といったものになります。生産能力はあるので、問題は何処の国のどんな発動機のライセンス生産を行うかを決めればよいと考えられたのです。そうすればあっという間にアメリカの軍用航空発動機生産は拡大し連合国の勝利に大きく貢献すると予想されていたのですが、世の中はそうそう思い通りにはなりません。ひと口にライセンス生産といっても、アメリカの機械工業にヨーロッパ製の製品を製造させるには大変な困難がつきまとうことが明らかになったからです。

 ヨーロッパから製造権を買い入れたアメリカの企業が驚いたことは、ヨーロッパの製造会社から供給された図面がまったく不完全なもので、製造に必要な情報が欠落していた点です。ある部品の製造図面が手渡されても、そこには細部の加工をどのように行うべきかを示す内容が無く、材質や熱処理に関しての情報も不完全なものでした。それに比べればメートル法とインチ・フィート法の換算などは瑣末な問題で、とにかくアメリカがその製品の製造を実行するのに必須な情報が欠けていたのです。

 自動車産業が発展していたアメリカでは大量生産方式に適合した規格化、標準化が浸透していましたし、アメリカの軍用発動機生産の大半を担うことが期待されたのはその自動車産業でした。一方、ヨーロッパの軍用発動機生産には機械加工が採り入れられていたものの、最終的に製造現場で熟練工が手仕事で仕上げる工程がほぼ必ず存在しました。別に「手仕事」や「現物合わせ」そのものが悪い訳ではなく、現代の兵器でも現物合わせが指定される部分はいくつも見られますが、問題はヨーロッパ製航空発動機においてそれが極めて広範囲に及んでいたことです。

 言い換えればたとえ戦時下の大量生産であっても、軍用航空発動機の量産程度であれば、職人の手仕事でもコストを度外視すれば何とでもなったらしいということですが、製品を大量かつ安価に製造しなければビジネスが成立しない自動車産業にとってヨーロッパの軍用発動機とはあまりにも粗野でいい加減なものだったのです。そして何よりも、軍用航空発動機の製造をほとんど行っていなかった当時のアメリカにはそうした手仕事での発動機生産に携わることができる大量の熟練工が存在しません。規格化、標準化された製造工程に馴染んだアメリカの工場に製造させるためには、その図面には加工に必要なあらゆる情報が示されていないと作業に取り掛かれないのです。アメリカの細分化された製造工程にはヨーロッパのような設計側との阿吽の呼吸と作業者の経験で製品を加工するカルチャーがありません。

 そのために全ての図面を引きなおし、ヨーロッパとはまったく別の製造工程を作り上げる作業が必要になり、製造権購入から量産開始までに一年以上の準備期間を費やしてまだ第一号機が完成しないといった事態がグノームでもルローンでもイスパノスイザでもほぼ同じように発生しています。その結果、計画当初は第一線軍用機用に供給する予定だったグノーム100馬力やイスパノスイザ150馬力は量産の見込みが立った頃には旧式化してしまい、苦労して量産にこぎつけたのに練習機向けにしか使えません。おかげでアメリカ軍は練習機には不自由しませんでしたが、ヨーロッパ製発動機の国産化には「手間ばかり掛り、製品ができた頃には旧式機」という問題がつきまとっています。

7月 12, 2009 · BUN · 4 Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊, 即席空軍大国, 発動機, 航空機生産

4 Responses

  1. ペドロ - 7月 12, 2009

    >アメリカ軍は練習機には不自由しませんでしたが、ヨーロッパ製発動機の国産化には
    >「手間ばかり掛り、製品ができた頃には旧式機」という問題がつきまとっています。

    カーチスJN-4ジェニーが大量生産された挙句無名時代のリンドバーグにも買えるほど安く叩き売られる一方で、アメリカ製第一線機でフォッカーやソッピース・キャメルのような歴史に名を残す機体が現れなかったのはそういう事情があったのですか。

    >アメリカの細分化された製造工程にはヨーロッパのような設計側との阿吽の呼吸と作業者の経験で製品を加工するカルチャーがありません。

    前に紹介してくださったWWII前夜、この時代から四半世紀後の英仏軍用機産業の状況とあまり変わっていない気が・・・。自分は欧米の軍用機事情を理想化しすぎていたのかもしれません。

  2. BUN - 7月 13, 2009

    ペドロさん

    「アメリカになぜフォッカーやキャメルが生まれなかったのか?」という疑問にはもう一つの答があります。
    後で触れますので、どうか、どうか気長にお待ち願います。

  3. toto - 7月 16, 2009

    当初一年以上の準備期間がかかったということですが、
    これは次第に短縮されたのでしょうか。
    DB601のライセンス生産時に比べるとぜいたくな悩みに思えてなりません。

  4. BUN - 7月 19, 2009

    totoさん

    ご感想ありがとうございます。
    アメリカナイズするまでの期間は休戦まで変わらないんです。
    しかも、この作業はアメリカ単独ではなく、製造元もアメリカのやり方に合わせて手取り足取りに人も金も掛けて支援してその結果です。
    減速器も過給器も燃料噴射装置もない100馬力台のエンジンでこれだったということです。

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