即席空軍大国 1 

 第一次世界大戦で連合国の勝利にアメリカが大きく貢献したことはよく知られていますが、ここで繰り返しご紹介している通り、第一次世界大戦「でも」空の戦いが戦争の勝敗に極めて重要な意味を持っていた以上、航空戦に関するアメリカの貢献もまた大きかったはずです。けれども目に見える貢献の痕跡はあまりにも希薄です。アメリカ陸軍航空隊の投入は戦争も末期に入ってからですし、その数も十分ではなくアメリカで設計された軍用機の投入もありません。実に不思議です。けれどもそれでは気持ちが収まりませんので、今回は「アメリカ第一次世界大戦の航空戦にどのように関わっていたのか」を探ってみたいと思います。

 第一次世界大戦前のアメリカ陸軍にとって、兵器としての航空機はそれほど魅力的な存在ではなかったようです。ライト兄弟が自らの発明をビジネスとしても成功させるために強固に提示し続けた見積額が軍の予算とかみ合わないという、ヨーロッパ各国でも見られた事情もさることながら、ヨーロッパ諸国の陸戦指揮官達が航空機の存在に触れたときに誰もが思い浮かべたような「航空偵察を活用した大規模機動戦」は主に南部国境程度しか脅威が無かったアメリカ陸軍にとって馴染みが薄く、いかにライト兄弟の母国とはいえ、兵器としての航空機に情熱を燃やす先進的な高級将校の集団はついに出現しないまま第一次世界大戦の開戦を迎えます。

 そんな事情でしたから1908年度から1915年度までにアメリカ陸軍が発注した軍用機は何から何まで集めても、たったの59機にしかなりません。しかもその中で実際に引き渡された機数は54機です。1916年当時のアメリカ陸軍航空隊とは数機の実働機と将校52人、下士官兵1100人、民間人210人で構成された陸軍通信隊の小さなセクションです。熟練操縦者もなく、ましてその装備機は本格的な軍用機としての装備を一切欠いたまま、ほとんど一品料理に近い形で町工場から送り出された様々な機体ばかりで、量産機など思いもよらない状態でありながら供給は4つの製造業者から行われ、最も実績のあったカーチスからの納入記録でさえ各機種合計22機といった状況です。

 しかし1914年の開戦を迎え、航空機を活用した陸戦の様相が伝わって来るとさすがのアメリカ陸軍も航空部隊の拡張に動き始めます。とりあえず30万ドルの飛行機購入予算が投じられ、5人の将校が航空工学の研究に送り出されます。参戦せずに中立の立場にあるアメリカとはいえ、とりあえず動き始めた訳です。翌1915年には政府の航空委員会が設立されてアメリカ航空機工業の潜在能力調査が開始されます。アメリカが近代的な航空戦を戦う準備を始めたのはこの時点からです。

 こんな話を続けていると当時のアメリカが田舎の工業後進国だったような気持ちになりますが、第一次世界大戦前のアメリカ工業の水準は既にヨーロッパ諸国を凌いでいます。造船、自動車を始めとして各分野で実績を伸ばしつつあり、特に大量生産にかかわる生産技術面ではヨーロッパを遥かに追い越してしまっているのです。「工業面でアメリカにやれないことはない」と国民も為政者も誰もが確信していたのが当時の状況です。当時世界一の航空機生産を誇っていたフランスでさえ、アメリカの機械加工技術と原材料供給に依存していたのですからその自負は当然のことでした。「動き出せば圧倒的な成果を上げて連合国の勝利に貢献できる」ことを疑う者は誰一人いないのが当時のアメリカで、諸外国もまた同じようにアメリカを評価しています。

 そして1916年、アメリカ陸軍通信隊傘下の航空機部隊に大拡張が命じられます。アメリカの参戦までまだ1年ありますが、アメリカがヨーロッパの陸戦に参戦することを本気に考え始めた証拠が9つの製造業者に対して行われた合計366機の大量発注です。ヨーロッパ諸国に比べたらひと桁少ない発注数ですが、創設以来の累計購入機数がたった54機だったことを振り返れば明らかな戦時体制への転換です。しかし、アメリカ陸軍航空隊が年度内、すなわち1917年4月のアメリカ参戦までに手に入れることができたのは64機に過ぎません。

 発注数と納入数がまったくかけ離れてしまった最大の理由は国内に航空機工業が存在しなかったという当然といえば当然のような事実にあります。アメリカ国内最大のカーチス社でさえ町工場に毛が生えたような規模でしたし、他の製造業者は会社組織さえまともではない零細な作業所でしかなく、年間、数機を製作販売しているだけの存在だったからです。高級スポーツ用具としての飛行機の特注製作ではなく、戦争に使える軍用航空機を量産するためには、優秀な軽量大馬力の航空発動機を大量生産する工場も必要なら、機体量産工場も必要、そしてそれらで働く作業者も必要、さらに航空計器や航空無線機、酸素供給装置、車輪、プロペラ、航空機関銃や爆弾投下装置、夜間着陸用照明装置、航空写真機その他あらゆる機材が必要になりますが、当時のアメリカではそれらを大量供給する工場が一つもないのです。

 そして1917年4月にはついにアメリカが世界大戦に参戦、軍用航空機の大量生産はアメリカだけでなく連合国全体にとって戦争の勝敗を分ける重要課題となってきます。それは3年近くの間、戦争を眺め続けていたアメリカ政府も軍も重々承知していました。けれども手もとには何もない。
これで戦えるのか?
本当の苦闘はこれから始まります。

6月 25, 2009 · BUN · 2 Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊, 即席空軍大国, 航空機生産

2 Responses

  1. ペドロ - 7月 3, 2009

    「軍産複合体」なんておどろおどろしい単語が出てくるはるか前の、ある種牧歌的な時代ですね。
    それこそヴィルヘルム2世の侵攻計画すら成功しそうです。

  2. BUN - 7月 4, 2009

    ペドロさん
    連合国がアメリカ航空機工業に期待した役割はWW2と変わらない、というお話が続くんですが筆が遅くてごめんなさい。
    こんな地味な話にお付き合い頂いてありがとうございます。

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