アメリカ戦艦の辿った道 番外編(「黒船艦隊」の実情)
ペリー艦隊来航について語るとなぜか、土佐弁になったり、江戸下町言葉になったりするものであります。
「これからは日本人も蒸気船で世界に出て行く世が来るぜよ。」
「お前さんたちゃ、あの煙をモクモク吹き上げる外国船を化け物と思ってるようだが、そうじゃねぇ。あれは人の造ったもんサ。」(出典 私の創作)
こんな感じで持ち上げるものだからアメリカ海軍もさぞ嬉しいことでしょうが、現実には蒸気船がマトモな外洋海軍の軍艦として機能し始めるまで、それから30年以上かかります。
蒸気機関が未発達で遠洋航海に適性を欠いていたことも重要ですが、蒸気船を動かすのに必須な技術系士官の育成に関わる揉め事は和魂洋才で欧米の技術導入に熱心だった日本海軍の士官教育とは比較になりません。
アメリカ海軍はまだ効率が悪く遠洋航海には不向きな段階にあった蒸気船を南北戦争という内戦で活用し、不安定なポンコツ軍艦ばかりを山ほど造り上げて運用しますが、それらに乗り組んだ機関員は民間からの志願者が中心で、海軍内部で育成した機関科士官などは殆どいません。その理由は技術系士官をまともに育成していないからです。
どうして正規の教育プログラムが存在しなかったのかと言えば、アメリカ海軍の兵科士官は、訳の解らない技術系の人間に艦内で大きな顔をされることを忌み嫌ったからで、神聖な軍艦を単に機械システムとして捉える「ワッチにも耐えられない」ヘナチョコな技術系士官に軍艦の実質的な運用を掌握されてしまうことに耐えられなかったのです。
それでも南北戦争終結直前にはアメリカ海軍はポンコツながら蒸気船海軍として生まれ変わっていましたから、今後の士官養成枠の半分を技術系とする法案が議会を通過してしまいます。今まで度胸とハッタリで単艦通商破壊を伝統とする国家に雇われた海賊の如き兵科士官達にとってこれは廃業勧告のようなものです。お前たちは今までの半分でいい、と言われたのですから。
しかし1864年の決定は簡単に覆ってしまいます。南北戦争が終結し、海軍の大幅縮小が決定したからです。700隻近かった軍艦は激減し、士官養成枠も縮小します。南北戦争で大量に使用された出来の悪い蒸気船の多くは退役してしまったのです。それと同時に始まったばかりの技術系士官養成はたった数人の卒業生を出しただけで1868年に中止されてしまいます。南北戦争後の海軍縮小はアメリカ海軍の近代化にとって痛恨の出来事となります。
それから四半世紀の間、アメリカ海軍は政府の技術系士官養成方針にもかかわらず、兵科士官が造船官も含めて技術系士官を抑圧し抜くという事態が続き、気がついてみれば20世紀を目前にして、技術も人もありながら、まったく二流の海軍になり果てていたのです。
南北戦争での蒸気船の急増とそれに伴う技術系士官制度の余りにも大量かつ急速な導入に対する反発と偏見、両派の反目、そしてまた余りにも急速な海軍縮小・・・そんな流れの中で、新しい時代に適応するための新しい人事制度、新しい教育制度の導入に失敗したことが一つの有力海軍を骨抜きにしてしまったという近代海軍史の教訓かもしれません。
黒船艦隊なんて、そんなものですよ、勝先生。
5月 17, 2009
· BUN · 3 Comments
Posted in: アメリカ戦艦の辿った道, アメリカ海軍
3 Responses
いものや - 5月 17, 2009
おもしろ過ぎます!!!
今回の一連のシリーズを拝見して、日本はアメリカ海軍のことをどこまで見切っていたかどうかと思わされました。
敵を知らず己を知らずで蟷螂の斧でふっとばされた盲目集団といわれがちな旧軍ですが、開戦前の長々にわたるアメリカのグダグダぶりを理解していたからこそ、『今のうちならいける』という判断もできたのではないかと考えさせられました。
ペドロ - 5月 18, 2009
ペリー来航からマニラ湾海戦までの米海軍は日本ではほとんど取り上げられていない深淵ですが、そんな状況でA・マハンは海洋戦略論を組み立てていったわけですか。
それともむしろ頭の中で純粋に理論だけ追求できる分、ド・ゴールみたいに軍内部で睨まれたりせず精緻なものを作りえたのか・・・。
BUN - 5月 18, 2009
5月は殆ど家に帰れない状態でしたので、「番外編」でお許しください。
いものやさん、それでも喜んで戴けて幸いです。
ペドロさん、マハンも著書は面白くありませんが、マハン自身はちょっと面白いですよね。
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