アメリカ戦艦の辿った道 8(最後に背中を押した「ルーズベルト恐慌」)

 ルーズベルトのニューディール政策と海軍軍備増強は表裏一体の関係にあります。通常、教科書で我々が習った歴史ではニューディール政策は公共事業を中心とした大規模な財政出動で景気を刺激するケインズ経済学の見本のように扱われていますが、実際にルーズベルトが行った不況対策の中心となるものは短期的な救済事業が中心で、失業者達を公園や学校など様々な公共施設の整備、道路の修復などで短期間雇用するというものでした。その中には「飛行場1000ヶ所の新設と補修」というちょっと気になる項目も含まれてはいますが、無数にあるように言われながら実際には数少ない中長期的な事業の中で重要な地位を占めたのが軍艦建造でした。

 ちょっと信じがたい気持ちもありますが、事実としてヨークタウン以降の軍艦建造費はNIRA予算から割かれています。これを決断したのはルーズベルト本人です。しかしNIRAは単なる公共事業計画ではありません。致命的なデフレからアメリカ経済が立ち直るために労働者の最低賃金を規定し、製品の販売価格を強制的に引き上げる統制経済的性格を持った経済政策がNIRAなのです。最低賃金や週40時間労働制といった規制はNIRAの下で定着したもので、こうした政策のために労働者の賃金水準は1929年以前よりも上昇し各種の経済指標はほぼ恐慌前の水準に回復しますが、失業率そのものはあまり改善できていません。こうした統制経済的性格があったためにNIRAは1935年に違憲判決を受けて修正を迫られたものの大筋はあんまり変りません。

 1937年度から再開された戦艦の建造計画もNIRAが背景となったものですが、ノースカロライナ、ワシントンの建造はNIRAによって許されながらNIRAによって翻弄されることになります。労働者の最低賃金を定め、労働時間を制限し、労働組合の活動を奨励したことで、造船に関わる労働者の世界が大きく変り始め、従来の熟練工組合の力が衰え、新たに登場した非熟練工によって組織された組合がそれに取って代わるという状況が生まれます。こうした非熟練工組合は待遇面の不満について果敢に戦う傾向があり、軍艦建造を受注した造船所でのストライキが発生します。1937年5月にニュージャージー州のFederal Shipbuilding and Drydock Companyで発生したストライキは実際に駆逐艦2隻の建造を中断させてしまいます。

 そしてようやく再開された戦艦という大物の建造にもNIRA政策下で生まれた故の揉め事が持ち上がります。それは賃金上昇に圧迫されて安い見積が書けない民間造船所が海軍工廠との受注競争にまったく勝てないという状況です。ルーズベルトは官と民が交互に受注するのが望ましいとの発言は行っていますが、こうした問題に特に干渉しません。競争に敗れて戦艦建造という特大規模の仕事を逃した民間造船所は大統領に対して地域ぐるみの陳情を行い、大宣伝が繰り広げられますが、結局、補助艦艇を受注することでお茶を濁されてしまいます。海軍もアメリカ政府も戦艦という重要な艦種の建造をいつストライキが勃発するかもしれない民間造船所に発注するつもりはさらさら無かったのです。そして戦艦建造のような超大型プロジェクトは民間造船所が受注しても海軍工廠が受注してもその経済効果にあまり変りはないと考えられ、このためにアメリカ戦艦の建造は民間造船所に頼らず、海軍工廠に発注されることになります。海軍工廠の建造能力の都合上、サウスダコ同型艦4隻中3隻が民間に発注された以外、6隻のアイオワ同型艦、5隻のモンタナ同型艦はこうした理由で海軍工廠に発注されています。

 さてNIRA絡みの揉め事はひとまず置いて、1937年度の戦艦建造着手について考えてみます。同年度に建造着手したのはノースカロライナ、ワシントンの2隻のみです。これは余りに少なくないか、という話です。日本は大和、武蔵の建造を開始しようとしているのにその半分程度の規模でしかない35000トン級戦艦2隻しか着手されなかったのは不思議といえば不思議です。計画上の問題や技術的都合でこれらを説明することもできますが、どうにも後付の理屈に聞こえてしまいます。どうして戦艦建造のスタートが地味だったのか、その理由はやはり政治家としてのルーズベルト自身に関わる問題です。

 1936年の選挙で圧倒的支持を得て再選されたルーズベルトはアメリカの財政を本来のあるべき姿である均衡財政に立ち返らせるため、1937年初頭に各省庁に対して支出の削減、救済、公共事業の縮小を命じます。同時に連邦準備加盟銀行の必要金準備率を倍増させる決定をも下します。「新戦艦がたった2隻だけ建造着手された」最大の理由は軍艦建造計画にこうした緊縮政策が大きなブレーキを踏んだ結果です。こうした政策は社会保障法による事実上の増税と共に総需要の抑制効果をもたらし、アメリカの経済は再び大規模な恐慌に直面してしまいます。ニューディール政策と逆行する政策をなぜ?と考えてしまいますが、ルーズベルトがケインズ主義者ではなかったことの、動かし難い証拠の一つがこの恐慌です。

再びアメリカ経済を襲った「ルーズベルト恐慌」と呼ばれたこの恐慌によって、復興しつつあったアメリカの工業生産は1937年9月から1938年5月の間に三分の二にまで減少してしまいます。景気が深刻な後退局面にあると判断した連邦準備理事会は9月には3億ドルの予算を引き出し、11月には政府証券3800万ドルの買いオペレーションを行いますが景気後退は止まりません。これはもはやニューディール政策そのものの崩壊の危機です。

 そんな危機にもかかわらずルーズベルトのブレーンは相変わらずの均衡財政派と財政支出派に分かれて論争を繰り広げています。この期に及んでまで均衡財政派に発言力が残っていたのはルーズベルト個人の意思と合致していたからで、財政支出派がそれよりも強力な論陣を張れたのはケインズ主義の台頭が後押したからです。そして1938年4月には有名な「スペンディング教書」が発表され、ルーズベルトが自らの政策を批判し、連邦政府の公共事業局を通じての救済政策の拡充、信用の拡大、そして公共事業の更新によって新たな購買力を付与する必要があると勧告します。それでも恐慌は1938年後半にさらに深刻化してゆきますが、自らの経済政策崩壊の危機に立ってルーズベルトがそれまでの均衡財政志向を捨てた、という大きな事実はアメリカの軍備にも大きな影響を与えます。

 その後のルーズベルトはサウスダコタ以下4隻の建造着手にサインし、アイオワ以下6隻の建造着手も認め、モンタナ型の建造をも認めます。日本やドイツの新戦艦に対抗するにしても、本来の軍事的な必要性を超えてエスカレートした傾向のある戦艦建造への着手は、やはり経済的背景を抜きには語れません。

 そして1938年度に認められたものは海軍軍備だけではありません。ニューディール初期には「軍艦建造に比べて経済的波及効果が少ない」として認められなかった航空軍備拡充計画にもルーズベルトはどんどんサインし始めます。以前に別テーマで触れた陸軍の戦略爆撃部隊に対して急転直下の承認が下りたのは1938年の9月です。この決断によってアメリカは第二次世界大戦に勝利する訳ですが、その決断時期にはそうした意味があります。ちょうど良くミュンヘン危機などが訪れるものの、軍備計画の承認とは微妙にタイミングがずれている理由がこれです。もし「ルーズベルト恐慌」という経済政策上の大失敗が無ければアメリカの軍備増強は史実より緩慢になっていたことは間違いありません。「ナチスドイツや日本の侵略政策への対抗」は目的ではなく結果だったのです。

5月 5, 2009 · BUN · 10 Comments
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10 Responses

  1. いものや - 5月 7, 2009

    目からウロコのお話、いつもありがとうございます。

    我が国が苦闘し敗れた大艦隊は、米国国内経済政策の行きがかりで生み出されたものだったんですね・・・。
    我が国はエラい国を相手にエラいタイミングで真正面からぶつかってしまったんですね。

  2. fff - 5月 7, 2009

    うーん、なんだか、大統領や困っているのやら、特に無理もなかったと考えるべきか・・・、勉強になりました。
    引き締めが早すぎたというのは、何度か耳にする話です。

    片やすべてを突っ込んだ軍備、片や雇用対策の軍備。
    この軍備が破壊したのは、末期的植民地主義、特にその最悪の抽出物
    たるところのファシズム(と、共産主義?)なのかなあと思うと、アメリカ
    経済にとっては、先を見た投資といえなくもないのかなあと思いました。
    もっとも、相手の最悪の姿があまりにもわかりやすかったために、国民の強い反対もなかったという事実もありそうです。
    そこに意図があったかどうかはわかりませんが、根底にそういう気分はあったのかもしれせん。

    いずれにせよ、おもしろいのは、37年の引き締めをやらなかったらどうなっていたかと言う点でしょうか・・・選挙でそう言う話はなかったんですよねえ・・・。結果は私には想像もつきません。

    戦後もたらされた新しい社会構造の中で、米国に次いで発展したのが解体された敗戦国ということ、退場したのがどのような人たちだったのかなども考えると、いろいろと考えてしまいます。

  3. ペドロ - 5月 7, 2009

    条約切れの1937年の1/1に真っ先にKGVを起工したイギリスに比べ、自分から軍縮条約脱退をしておきながら、晩秋になってようやく大和型戦艦に取り掛かった日本海軍の失策を問う論考を読んだことがありますが、案外条約切れ初年度の米英の動きを窺っていたのかもしれません。
    そして出てきたのがルーズベルト恐慌と小出しの建艦政策ですから、当時の日本海軍軍人にとって無条約状態での対米八割の戦力保持も可としたのも当初は現実味を帯びて見えたのでしょうか。

  4. ヤマザクラ - 5月 11, 2009

    建艦計画には、経済政策の側面があったのですね。

    そういえば、第一次世界大戦前の建艦競争の時代に、
    軍縮条約が何度か検討されながら、英・独とも反対した理由の一つが、
    「軍艦建造に従事する企業体は製造・販売のあらゆる部門に及ぶので
    軍備制限はこれら企業体への大打撃となる」「多数の人々が路頭に迷う」
    だったとか・・(ジェームズ・ジョル「第一次世界大戦の起原」p106)。

  5. fakeKilroy - 5月 13, 2009

    > もし「ルーズベルト恐慌」という経済政策上の大失敗が無ければアメリカの軍備増強は史実より緩慢になっていたことは間違いありません。「ナチスドイツや日本の侵略政策への対抗」は目的ではなく結果だったのです。

    タナボタとはこのこと、といったらよいのでしょうか。
    というか、いつものことながら、たいへんタメになります。

  6. アラスカ - 5月 22, 2009

    これだけルーズベルトが大統領になって海軍に影響を与えたなら、逆にルーズベルトが死んだときに海軍がどうなったかが気になりますね。

  7. ペドロ - 5月 22, 2009

    >ルーズベルトが死んだときに海軍がどうなったか
     
    逆にルーズベルトが平穏に4期目を終えていたら、ルーズベルト政権で海軍の要職を勤めたフォレスタルの自死、そして「提督たちの反乱」で頂点に達する激動のアメリカ海軍戦後史はどうなっていたのかと。
    以前は戦後の急速な軍縮過程で生じた、避けがたい混乱としか見ていませんでしたが・・・。

  8. アラスカ - 5月 24, 2009

    >逆にルーズベルトが平穏に4期目を終えていたら

    三軍統合がどうなるか見物ですね。まあ縄張り争いをするのは変わらないでしょうけど。

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