アメリカ戦艦の辿った道 7 (日本海軍の反応)

 ルーズベルトの建艦政策が日本とアメリカの海軍軍備競争を生んだと説明されたなら、よく勉強されている方は「いや、ルーズベルトの就任よりも日本海軍の①計画の方が先じゃないか」と思われるかもしれません。確かに日本海軍の①計画はルーズベルトのNIRAシップに先行しています。けれども①計画とはロンドン会議以前の軍備計画をロンドン会議の結果を受けて修正したもので、補助艦艇の補充を主眼とした、やや地味な建艦計画です。巡洋艦と駆逐艦を中心としたその内容のおとなしさはその後にエスカレートする日本海軍の建艦計画の第一陣として眺めれば「こんなものかな」と納得してしまいますが、本当なら条約枠一杯までの軍備計画であっても不思議はないはずです。

 日本海軍はロンドン条約締結後の国防所要兵力策定時にアメリカ海軍は1000機、あるいは1200機の航空兵力とともに侵攻し、「制空権下の艦隊決戦」を挑んでくるものと想定しています。この研究プロセスは幸いなことに詳しく記録が残されていますので、当時の日本海軍の焦燥感のようなものがよく読み取れます。「赤城」「加賀」という大型な割には搭載機数の少ない「失敗した空母」しか持たない日本海軍が大型空母「レキシントン」「サラトガ」を含むアメリカ太平洋艦隊にどう対抗するのかを考えたとき、良くて刺し違える程度の空母部隊ではなく、陸上基地から発進する陸上攻撃機部隊の充実を考えたのは偶然ではありません。

 そして陸上攻撃機と同時に母艦航空隊の攻撃兵力として敵空母撃滅を主眼とした急降下爆撃機の研究が開始されたのも「空母の敵は空母」というアメリカ海軍と同様の結論を日本海軍も同じく得ていた証拠でもあります。日本海軍が最大の脅威と感じていた1000機の航空兵力とはただ漠然とした情報によるものではなく、先に触れた1926年のモロー委員会の答申に基づくアメリカ海軍航空隊の軍用機取得計画に対応したもので、当時の日本海軍がアメリカの軍備政策に対してきわめて敏感だったことを示す事実です。現実のモロー委員会答申はなかなか実を結ばず、海軍航空隊の第一線兵力は相変わらず貧弱なまま何年も過ぎてしまいますが、明確に「1000機」という数字を打ち出したモロー委員会答申は日本にとっては相当な脅威として映っていたのです。

 それでも①計画は巡洋艦と駆逐艦等の増備計画でしかなく、航空母艦の建造は含まれません。条約の枠内にまだ余裕で収まる規模の軍備で、主に兵力構成の調整が主眼といえる内容です。それが1934年に一変します。国内の戦史研究でも日本海軍の軍備計画が第一次計画と第二次計画とでその性格が異なることは了解されています。公刊戦史でも「産業復興法」によるアメリカ海軍の建艦計画に対応して策定されたものが第二次計画、すなわち②計画であると説明されていますが、ただ非常にシンプルな記述なのでその重要性を見過ごしてしまいがちです。ルーズベルトの主導で「NIRA」による雇用促進政策のかなりの部分が海軍軍備拡張に充てられ、陸軍や陸上航空兵力とのバランスを欠いたまま急激な政策変更によって十分に吟味されていない大規模な建艦計画が実行に移されたことこそ注目に値するのです。

 「NIRA」の予算を軍艦建造に振り向けて1000万人を超える失業者対策の重要な部分を造船業とそれに隣接する製鉄業等の活性化によって解決するという着想そのものはルーズベルトの思惑通りに一定の成果を上げることができ、建艦計画第一陣を割り当てられた民主党の地盤にあった造船所は地域ぐるみでルーズベルトへの支持を確約し、共和党支持勢力を一掃していまします。民間造船所のある地方では新造軍艦の受注を請願する市民運動までが生まれ、首尾よく受注できた造船所のある地域は新たな民主党の支持基盤へと生まれ変わります。また「NIRA」そのものは、単純な大規模公共事業計画ではなく、最低賃金を定め、物価を上昇させてデフレからの脱出をはかる性格を持っていたために民間業者との軋轢を生み、1935年には違憲判決を受けて消滅しますが、そのお蔭で労働者の平均賃金は1929年の水準を大きく超えることとなり、これもまたルーズベルト再選の原動力となります。

 このように国内経済政策としては成功だった「NIRAシップ」建造でしたが、軍縮条約がある以上、海軍の伝統的な勢力が本当に欲していた戦艦の新規建造はできません。当時のアメリカ海軍はルーズベルトという特異な大統領の登場で突如訪れた「春」をどう利用すべきかを悩んだ結果、とりあえず補助艦艇の条約制限一杯までの充実を選択することになります。とりあえずの空母建造、とりあえずの巡洋艦建造なのです。この時期の建艦計画がどこか焦点がボケているような温いイメージを与えるのはそんな理由でもあります。

 ただし、日本海軍の目に「NIRAシップ」建造計画はアメリカの国防方針が大きく変更された証拠として映ってしまいます。もともと強力だった戦艦部隊に加えて今まで若干見劣りしていた補助艦艇が充実されることは、アメリカ海軍に太平洋を越えて侵攻する能力と任務が与えられたものと解釈されてしまいます。それに対する日本海軍の回答が高速空母2隻を含む②計画であり、「赤城」「加賀」を含む大型軍艦の大改装です。空母の充実は隻数で劣る日本戦艦部隊が砲戦を有利に戦うための唯一の方法だったからです。

 ルーズベルトの経済政策としての建艦計画は国内では成果を上げたものの、対外的には日米建艦競争の口火を切った明らかな挑発として機能しています。そして「NIRAシップ」に対抗した日本の建艦計画はルーズベルトにとって逆風となるどころか、「日本の軍備増強」として更なる建艦計画を実施するための貴重な追い風を提供することになります。日本海軍は条約の制限が無ければ総合的に対米8割程度の兵力で両国海軍軍備は拮抗すると推測していましたが、共和党政権下ならばともかく、ルーズベルト登場後にはまったく儚い期待に過ぎません。

 日本にとってルーズベルトの常識はずれな戦艦への偏愛は軍事的にも経済政策的にも常識を超えたまったくの想定外だったからです。そしてアメリカの失業問題は結局のところ第二次世界大戦参戦まで根本的な解決には至らず、1939年になっても政府の一時的な救済事業で養われている人々を含めると失業率は17%を記録しており、軍縮条約がどうであれ公共事業としての軍艦建造はまだまだ続けなければならないのです。

4月 13, 2009 · BUN · 4 Comments
Posted in: アメリカ戦艦の辿った道, アメリカ海軍

4 Responses

  1. wittmann - 4月 14, 2009

    「失敗した空母」の説明はどこを読めばのよいのでしょうか?
    アバロンヒルのFlattopをやって以来その説明はうれしいです。

  2. BUN - 4月 14, 2009

    南雲機動部隊の旗艦を務めた「赤城」が駄目な空母だったことはこれからどこかで触れるかもしれませんが、昔のゲームに採り入れられていた「日本海軍は雷撃機、米海軍は爆撃機を重視していた戦術思想の差が搭載機の構成にあらわれている」といった、もっともらしい認識に根拠がないことや、「理想」のように語られるアメリカ空母といえども結局まで理想に到達できなかったこと等については近々軽く話題に上げたく思います。

  3. ペドロ - 4月 14, 2009

    この「道」の中で日本の軍縮条約破棄はどのように位置づけられるのか考え込んでしまいます。
    彼我の建艦力の絶望的な格差は判っていた以上、軍縮条約で米海軍の拡大を条約枠にとどめるという道はありえたのでしょうか?

  4. BUN - 4月 15, 2009

    ペドロさん

    もしかしたらあり得たのかもしれませんね。
    なぜならアメリカの本格的な軍備拡大は日本にとっての「無条約時代」の到来からひと呼吸置いているからです。
    最後にルーズベルトの背中を押したものは何だったかというお話を続けようと思っています。

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