一筋縄で行かないゼークトの評価
ヴェルサイユ条約下でのドイツ軍再建に尽力し新生ドイツ陸軍に攻撃的機動戦ドクトリンを根付かせたゼークトの業績は評価してもしきれない程に重要ですが、世の中には「そうでもない」とする意見があります。
「ゼークトの機動戦論は電撃戦と直接の関係は薄い」
「所詮、第一次世界大戦中の発想である」
「ゼークトは騎兵の擁護者だった」
「机上の空論に走りがちで具体的な行動は起こせなかった」
本当は誰が言ったかわからない妙な組織論のようなものばかりが有名な上に、ゼークト批判はこんな具合に出揃っています。そもそもゼークトがヴェルサイユ会議の表舞台に引っ張り出された最大の理由はその国際感覚で、軍事に高い見識があり外国語(ゼークトは数ヶ国語をマスターしていた)に堪能な高級将校などゴロゴロいそうなドイツ陸軍将校団の中で現実にそのような資質を持つ者は極めて少数だった点が見逃せません。まるで第二次世界大戦下、日本の遣独潜水艦が大変な苦労の末にビスケー湾まで到達したところ、ドイツ側と話せる兵科将校が一人もいなかったという事例を思い出させます。要は変り種だったのです。これが批判的雰囲気のベースとなっています。
そしてドイツ陸軍に機動戦理論を広めた第一人者であるのに「電撃戦とは関係が薄い」とされるのは何故でしょうか。これはゼークトの後に続く世代の機動戦論者の置かれた事情を見る必要があります。彼等は決してドイツ陸軍の主流ではなく、少数の先鋭的なグループに属していることを自覚し、その自負もありましたから、そのために先達の功績を素直に認め難いという心情があったことに加えて、ゼークトの機動戦理論の半分を支えている航空戦理論に疎かったことが重要です。ヴェルサイユ条約下のドイツには空軍が存在せず、その重要性を頭では理解できていても実感が無く、航空戦をひとつ別の次元に捉えて、地上部隊の枠内での戦車部隊の運用に重点が置く傾向があり「航空は自分の仕事ではない」との意識が存在しています。後世の評価もその影響を大きく受けています。
また、ゼークトの機動戦論を前大戦の遺物と見る論評は今まで紹介して来た通り、「前大戦にこそ全ての萌芽が存在した」ことに対しての無関心から生まれています。ナチス政権下で空軍が独立を果たしたことも手伝って戦略爆撃から近接地上支援までの航空戦を論じる事が出来た陸軍の将官はゼークト以降、殆ど現われていません。そして肝心なドイツ陸軍の陸戦理論も攻撃ドクトリンはともかくも、防御ドクトリンに関しては第二次世界大戦中まで前大戦以来、基本的に変わっていません。そしてゼークトの機動戦論をより素直に継承したソビエト赤軍が、それを実践することでドイツ陸軍を最終的に圧倒したことも注目に値します。
しかしゼークト本人の騎兵に対する愛情は確かにマイナス評価の源流となっています。これは事実です。けれどもゼークトのドクトリンが戦車や機械化部隊を否定している訳ではなく、戦間期のドイツ軍がハリボテの戦車で演習しているのも、演習における威力評価が現実には装備されていない戦車と重砲を重視していたからで、ゼークトが火力戦を否定し戦車の威力を軽視していた訳ではありません。ただ、ゼークトは「ドイツ国内の道路事情を考慮すると大規模な戦車集団の運用は貧弱な道路と橋梁によって制限されるので、機動戦力としての騎兵の価値は衰えない。騎兵は過去のものとの評価は間違っている」と主張しているのです。
これは同時代の騎兵将校の主張によく似ている上、若干論理性を欠いていてゼークトらしくない部分ですが、ヴェルサイユ条約下の軍備制限によってゼークトの手もとにあった機動戦力は騎兵師団のみだったことも忘れるべきではないでしょう。いくら重視していても現実には戦車も重砲もハリボテなのですから。ゼークトにとって敵の防御縦深を重砲と航空攻撃で制圧して敵予備軍を拘束できたのなら、そこを突破する部隊が戦車に乗っていようが、馬に跨っていようが、本質的に変わらないと考えていたらしいことも事実です。しかし東部戦線で活躍し塹壕戦をあまり体験しなかったゼークトの戦歴から「騎兵が好き」という心情も十分に窺えます。
そして「ゼークトは具体的には何もしなかった」という評価も半分は事実です。ゼークトは当時ドイツが直面した軍事的危機に際して、行動を起こしていません。次世代の国軍育成には全力を尽くしたにも拘わらず、現実の司令官としては行動を抑制していたという意味でこの批判は正しいのですが、そうはいってもゼークトがもう少し血の気の多い人物で1920年代にドイツ国軍を出動させていたら、ナチスの台頭を待つまでなくドイツは崩壊の危機に晒されたかもしれません。
ドイツ陸軍高級将校として異質な国際派であり、陸軍の将官でありながら異常なまでに航空を重視し、機動戦論の中心人物でありながら騎兵の擁護者であるというゼークトの評価は一筋縄では行かないというお話です。
2月 16, 2009
· BUN · 7 Comments
Posted in: ドクトリン, 陸戦
7 Responses
ヤマザクラ - 2月 17, 2009
>ゼークトにとって敵の防御縦深を重砲と航空攻撃で制圧して
>敵予備軍を拘束できたのなら、そこを突破する部隊が
>戦車に乗っていようが、馬に跨っていようが、本質的に変わらない
戦術レベルというより、作戦術レベルでものを考えていた、といったところでしょうか。
厳密な意味での「電撃戦」であるかどうかよりも、
航空阻止や阻止射撃で全縦深を押さえられるかどうかの方が、
ずっと重要なのかもしれませんね。
ペドロ - 2月 17, 2009
再軍備に向けての努力というとフライコールの保護や、農業用トラクター、スポーツ機という名目での戦車、軍用機の開発・生産などモノの点にしか目が行かなかったのですが、ドクトリン面での発展も欠かせない要素だとわかりました。
それにしてもWWI終戦の段階でここまで進歩していたのなら、わざわざラパッロ条約で赤軍にドクトリンの発展という塩を送ることは無かったのではないかと。ヴォロシーロフやブジェンヌイのような内戦の元老たちが幅を利かせたまま41年6月22日を迎えるという、スターリンにとって悪夢のような展開もありえたかもわかりません。
wittmann - 2月 21, 2009
>ドイツ国内の道路事情を考慮すると大規模な戦車集団の運用は貧弱な道路と橋梁によって制限されるので
その後の独ソ戦を知るものにとってちょっとアレゲ
BUN - 2月 21, 2009
ヤマザクラさん
Ⅰ号戦車やⅡ号戦車でできたことは、ひょっとしたら騎兵でもできるかもしれない?なんて考えたくなっちゃいますね。
ペドロさん
ソ連領内の秘密基地は空軍を残す意味でやはり必須のものだったんだと思います。
wittmannさん
ゼークトの言葉には「山がちなドイツ国内」という言葉が加わっているんですが、どこかで聞いたような話ですよね。
Yoneda - 2月 23, 2009
航空攻撃で制圧したあと、戦車も馬もろくにない状態で、歩兵だけで、立派に機動戦というか突破/包囲/撃滅をやってのけた軍隊もあったような気がします。
相手よりも早く、そして速く移動できれば十分機動戦は行えるのであって、その差を生み出す方法には絶対的な速度が必ずしも必要というわけではないということなのでしょうね。
Trap - 12月 3, 2009
ゼークトを理解することは、結局ヴァイマール共和国とは何だったのか、って難解なテーマの理解につながりますよね。
ヨーロッパ史、ことに近代史を講義していると、ゼークトとシュリーフェン、この二人のことは避けて通れません。軍事史、政治史について浅薄な理解だと(そうした教員が大半ですが)、生徒につながりを持った世界史を講義することができず、「近代史は分かんない」と言われて終わりですから。
その意味では、ハルダーのクーデター未遂(1938~39)、ヴァルキューレ作戦(1944)、赤軍大粛清(1937~38)の話しは、必ずするようにしています。教科書に載っていなくてもです。
ちなみに、現代の欧州を深く理解するには、私も部活で長年関わっている、「球を蹴る資産家たち、その中の一部教養人たち」の思考や動きを見ていないと何も始まりませんが(苦笑)
ゼークトの理解は、一筋縄ではいきませんよ。文化のことも、文学のことも考えないといけないから。
BUN - 12月 8, 2009
Trapさん
確かにゼークトは難しいですね。
簡単なコラムで語りきれるような人物ではないようです。
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