「幻の空軍」誕生前夜

 第一次世界大戦で敗北したドイツはベルサイユ条約によって厳しい軍備制限を受けることになりますが、この条約の内容が公式のものとなったのは1919年の5月です。休戦は1918年11月ですから、それまでの約半年もの間、ドイツ航空機部隊はどのように過ごしていたのでしょうか。今回の話題はここです。

 面白いことにドイツ陸軍航空機部隊(Luftstreitkrafte)はただひたすらに戦争を戦っていた訳ではありません。この戦争は大規模ではあるけれどもいずれ終戦を迎えるはずであると冷静に判断していましたし、彼らが戦後の構想を持ち始めたのは1917年の秋頃からです。戦争の結末がドイツに有利であれ不利であれ、1918年に予定されている大攻勢の結果がどうであれ、戦後のドイツ航空機工業にとって重要な問題は「軍からの受注が激減する」ことです。

 陸軍航空機部隊としても戦争が終結すれば現在行われているような常識を超えた量産体制が到底維持できないことを認識していましたが、だからといって急激な需要減でドイツの航空機工業全般が衰えてしまっては大問題です。そのために巨大化した航空機工業をそのポテンシャルを維持したまま民需転換させる研究が開始されます。それは今のビジネスと同じく、自らの長所、短所、競合相手の長所、短所の検討から始まりますが、連合国に比べて発動機の量産能力で劣り、機体の製造技術で優るドイツ航空機工業をいずれまた訪れるであろう戦争に備えて理想的な形で温存するためには、その重点をはっきりさせなければなりません。

 結局、ドイツ航空機工業の特色である機体製造技術の優位と飛行船や大型爆撃機などの製造技術を温存するためには長距離旅客機、長距離輸送機の需要を喚起できる国際的航空運輸業を育成する必要があると判断されます。それは同時に航空機の量産という分野では連合国に劣ったドイツが戦後の航空界をリードできる唯一の道であり、軍事的な見地からも戦略的用途の大型軍用機の開発と製造を継続できるメリットを持つと考えられたのです。

 しかし1918年攻勢は失敗に終わり、陸軍航空機部隊は2対1、3対1という劣勢の中で急速に消耗しながら11月の終戦を迎えます。ただし、反乱や不服従に満ちた陸海軍とは異なり、航空機部隊は休戦が実施されるまで整然と戦い続けています。兵力的には絶望的状態にあったとはいえ、ドイツ戦闘機隊は個々の戦闘ではまだ侮り難い戦力を保っていましたから秩序を失うには至っていません。

 攻勢敗退後の航空戦は押され気味とはいえ、例えば1918年8月中に西部戦線全体で418機の連合軍機を撃墜して損害は150機(それでもドイツ軍にとっては痛い損害)といった戦闘が続き、依然精強だった戦闘機隊に限ればJG2などは9月中に81機を撃墜して損害は2機でしかありません。結局11月の休戦発効時には西部戦線に第一線機2709機と約4500人のパイロットを維持しています。3月の攻勢開始時の3600機と1600機の予備機に比べればかなり寂しい数字ですが休戦間際の混乱状態にあったドイツ軍の中で組織的戦闘を継続していた唯一の軍だったということもできます。

休戦と共に連合国はドイツに対してフォッカーDVIIと全夜間爆撃機を含む第一線機2000機の引渡しが要求されます。しかし引渡しは進まず要求後1ヶ月経過した12月12日になっても連合国に引き渡されたのは730機に過ぎません。ドイツ軍には合計9000機前後の軍用機が残り、休戦後も戦闘能力を維持しながら国軍再建への道が検討されます。そしてドイツ軍中枢には休戦は旧来の体制を破棄してより合理的な軍備を実現する一つのチャンスと考える改革派も存在しました。連合国との交渉にあたったハンス・フォン・ゼークトもその中の一人です。ゼークトは1919年から1920年までドイツ陸軍参謀長を務め、1920年から1926年まで陸軍総司令官を務めていますが、良く知られているようにドイツ国軍改革の担い手としてその名を残しています。しかしゼークトは単に地上軍に対する機動戦指向の改革を行った陸戦理論家としてだけではなく、恐らく第一次世界大戦直後のヨーロッパで随一の航空戦略家でもあります。

1919年初頭にヴェルサイユでゼークトが連合国に希望した戦後のドイツ航空兵力は航空機1800機と10000人の人員からなる戦闘機、観測機、攻撃機、長距離爆撃機をバランスよく保有する独立した空軍でした。この構想は西部戦線の航空機部隊を指揮したヘルムート・ヴィルベルクが作成しゼークトに提出したもので、世界大戦の経験に基づく効率的な航空軍備を求めたものです。ドイツの航空関係将校を代表するヴィルベルクだけでなくゼークトも戦後ドイツの国軍が近代的軍隊として機能するには最低限これだけの航空軍備を維持しなければならないと確信していましたし、戦後のドイツ航空機工業も軍からの発注激減で大打撃を受けてはいましたが、ユンカースなど一部はまだ軍用機開発を継続していました。大型航空機の製造技術に加えてドイツが最先端を進んでいた全金属製航空機の製造技術を維持発展させるための軍用機開発は休戦後も停止することなく、新たな試作戦闘機も完成していたのです。

 そんな動きの中で、驚くほど厳しい軍備制限が課せられることになる1919年5月を迎えます。軍用機の保有を一切禁止され、しかもドイツ国内の航空機工業は半年間にわたって事実上凍結されてしまい、多くの航空機製造会社は廃業または転業を強いられ、ドイツの軍事航空はそれから16年間、歴史の表舞台から姿を消すことになります。けれども軍事航空を禁止されたからといって、新たな国軍がめざす理想が消え去った訳ではありません。戦車も機関銃も禁止されたドイツ陸軍とド級戦艦も潜水艦も禁止されたドイツ海軍はもうひとつの国軍である「幻の空軍」と共に、いずれ訪れるであろう再軍備時代に備えていたのです。

1月 4, 2009 · BUN · 2 Comments
Posted in: ドイツ空軍, ドクトリン, 第一次世界大戦

2 Responses

  1. king - 1月 5, 2009

    新年早々ボリュームのある記事有難うございます。第二次大戦前の独空軍が先進的な事は今までの記事でわかりましたが、具体的な個人名を知りたいと思って居た所です。フォン・ゼークトだったとは、、ゼークトラインの印象が強くて塹壕戦と野戦陣地の専門家という見方をしていました。

  2. BUN - 1月 5, 2009

    kingさん
    ゼークトは機動戦論者として有名な軍人ですが、この人が退いた後、ちょっと揺り戻しのような情況が見られます。
    「ドイツ軍の防御ドクトリン」の中でちょっと触れたような、そんな流れです。

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